・安息日の主
パリサイ人らは、安息日に麦の穂を摘んで食べていた弟子たちを見て非難しました。それに対して主イエスはダビデの故事を引き、油注がれた者の従者が特権に預かることを示します。さらに「人の子は、安息日の主」と宣言しました。人の子とはキリストのことですが、キリスト到来の今、キリストの弟子たちは圧倒的な恵みの支配の中にあることを示しています
・安息日は「善と救い」
また別の安息日、主イエスは会堂で右手のなえた人を癒やします。そのときにも批判的なパリサイ人らに対して次のように語っています。「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか…いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか」と。主イエスには圧倒的な恵みと救いの支配があります。そこでは無力さを告白して、ただ恵みと生命に預かることが大切なのです。
・私たちと安息日
現在、旧約の安息日は影として消え去り、ただ本体のキリストの安息が存在します。それは、私たちの心のなかで実現する霊的安息です。私たちはこの安息に、ただ信仰によって入ることができますが、その際に必要なことは、一切の自分の業と思い煩いを止めることです。
ある夫人は、エッセイの中で、さながらヤドカリのように法螺貝をかぶって、日常の煩いから逃れる時が大切と書いていました。私たちの場合は、キリストのうちにそれを見出すべきです。
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