2016/12/25 ルカ2:8~14 天に栄光 地に平和



・御使いたち
 御使いたちは天において神を仰ぎ見、賛美し、仕える存在です。しかしクリスマスの出来事の際には、天から降りて地上に現れて暗闇を照らし、大きな賛美をしています。その理由は、神の子キリストが地上に誕生したことによって、地上においても天に劣らない栄光がやどったからでした。現代でも、キリストの福音の伝えられる所では、御使いたちの気配があり、賛美があります。

・「天に栄光」
 御使いたちは「いと高きところに、栄光が、神にあるように」と賛美しています。「いと高き所」とは、すべてにまさる神ということです。神は栄光を帰されるべき唯一のお方です。しかしクリスマスにおいて御使いたちがあえて賛美しているのは、御子キリストが地上に下ってきて罪の世界に失われた人々をも神の元になるからです。そこにおいて神のすばらしさが深く、広く、高く、示されることになるからです。

・地に平和
 「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」とあります。地の上は罪と死、また敵意と憎しみが支配していますが、キリストを通して、神との平和、人と人との平和が実現することになるのです。私たち自身もかつては、神に敵対していた者たちでしたが、キリストとの出会いを通して、平和が訪れたのです。このクリスマス、私たちも御使いと共に心から賛美し、御業の進展のため祈りましょう。

2016/12/18 イザヤ7:14 処女降誕の預言



・しるしを求めよ
 イザヤ7章はBC8世紀末の南ユダのことが記されています。当時の王と民衆は、隣国の侵略に慌てふためき「林の木々が風で揺らぐように動揺し」恐れていました。そこで預言者イザヤは王アハズに対して、神が共にいて助けてくださるのだから、その「しるしを求めよ」と語ります。王アハズは、不信仰から求めることはしませんでした。しかし、神が提示する「しるし」は是非求めるべきで、それによって信仰を深めるべきです。

・処女降誕の預言/しるし
処女がみごもっている」と神から一つのしるしが与えられることが預言されています。いわゆる処女降誕のしるしです。これは神の奇跡としての出来事です。人間の力と知恵を遙かに超えています。私たちは、この「しるし」に注目し、それが自分のために与えられたものとして、意味を探ろうとするとき、聖霊は、私たちの心を開いて、神の臨在と救いを明らかにします。

・インマヌエル
男の子を産み、その名を『インマヌエル』…」とあります。「男の子」は、旧約聖書において、大きな主題とされています。アブラハムの子孫、ダビデの子孫として誕生し、彼は、死と罪と世のあらゆる支配から、神の民を救う方とされています。「インマヌエル」とは「神は私たちと共におられる」という意味で、名は体を表しています。

2016/12/11 ピリピ2:9~~11 キリストの高挙



・それゆえ神は
 先にキリストの自発的なへりくだりについて記されていましたが、9節では「それゆえ、神は…」と、主語が父の神となっています。父の神は、御心に従って自分をへりくだらせる者を決して、見放すことはしません。必ず、ご介入して、今度は正反対の方向に導かれるのです。それはキリストだけではなく、すべてキリストに連なる者たちについても同様です。

・キリストの高挙
神はキリストを高く上げて 」とあります。父の神の御業はキリストを高くあげることでした。ご自身の全能の力を働かせて「高く」上げたのです。それはすべての力も権威も凌駕する高さ、ご自分と等しい天の座です。
 「すべての名にまさる名を」与えたとあります。つまり、天上と地上の名だたる支配、権威、力、主権よりもすぐれた者としたと言うことです。一切はキリストのためになされた業ですが、それはキリストに連なる信仰者にとっても有意義なことです。私たちもキリストを通して、すべての上に立てられたと言うことです。

・「イエス・キリストは主」
「イエス・キリストは主である」と告白し」とあります。万物は、ただ心で信じているだけではなく、口による告白が必要なのです。特に私たちの場合は、キリストのあわれみを一身に受けた者たちですから、天上の何ものよりも、大きな声で告白すべきですし、またそうせずにはいられないのです。

2016/12/4 ピリピ2:5~8 キリストのへりくだり



・キリストのへりくだり
 パウロはキリスト者の模範的へりくだりとしてイエス・キリストの業をへりくだりとして紹介します。
 「キリストは、神の御姿であられる方なのにご自分を無にして」とあります。「栄光の姿」は、常識的には、それをはぎ取るなどと言うことは考えられないことです。しかしキリストは固執せずに無にして、反対に「仕える者の姿」をとったのです。人はみな栄光の衣や肩書きを付けたがるのですが、キリストの心は人々に仕えるために逆方法に向かったということです。

・十字架の死にまでも
 キリストは人間に仕えるためには、人間の姿をとって地上に誕生しました(受肉)。その極致は、人の罪の身代わりとなって十字架にまでも至りました。十字架は極悪人の刑であり、宗教的には神に呪われた者とみなされました。それは父の神に従ったということですが、同時にご自分で自発的にへりくだり、徹底して仕えたと言うことです。

・へりくだりと栄光
 表面的にはキリストのへりくだりの姿は悲惨だけのような気がします。しかし、霊の目を開いてみるとき、そのようなへりくだりは人間には全くできないことに気づきます。また、御言葉をとおして、そのへりくだりが「私」の罪のためであるということに知るのです。そのように、私たちの霊の目が開かれたときに、十字架の姿こそ、神としての姿、また栄光の姿であることを発見するのです。

2016/11/27 ピリピ2:3~5 キリストの心構え



・自己中心と虚栄
 「何事でも自己中心や虚栄からすることなく」とあります。「自己中心」とは自分の利益のためにだけ行動したり、自分中心に動く仲間を作ったりすることです。「虚栄」とは本来は虚しい存在に過ぎない自分を大きく見せて、人々の称賛を得ようとすることです。これらは古い人に深く根ざした悪です。コイノニアの交わりの中で、私たちは実際的に古いアダムの体質を砕き、殺していくことになります。

・へりくだりと配慮
 「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれたものと思いなさい」とあります。へりくだりは新しい人の心の姿勢です。それはコイノニアの交わりの中で、兄弟姉妹を自分よりすぐれた者として尊重して応対するなかで養われていきます。実際に兄弟姉妹方はすべて神の子であり、神に尊ばれているのです。
 「…他の人のことも顧みなさい」とあります。自分のことを自分ですることは、大人として基本です。しかしそこで留まっていたのでは、なお未熟です。神の民は「他の人のことを顧みる心と行動」がしっかりと要請されています。
 
・キリストの心構え
 これらはキリストの心構えであって、キリストご自身が第1に模範として示されたことでした。それによって、このへりくだりの心構えこそが、キリスト者の祝福と喜びの秘訣であり、またコイノニアが健全に保たれるためのエキスでありことを示されたのです。

2016/11/13 子ども祝福式・礼拝 Ⅰサムエル16:1~7 「主は心を見る」



・預言者サムエルと油注ぎ
 起源前1000年頃の物語です。主なる神は、預言者サムエルに命じて、ベツレヘム人エッサイの子どものひとりに油注ぎをして、王として任命するように命令します。そこで彼はベツレヘムの町に出かけまて、エッサイと子らを招きます。
 最初に長男エリアブが紹介されます。彼は容貌も体格もよく、彼こそ王としてふさわしいと考えました。

・主は心を見る
 しかし主なる神の人物評価は異なりました。まず「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている」と語ります。さらに「人はうわべを見るが、主は心を見る」と続きます。
 預言者にして、人生のベテランであるサムエルでも上辺にとらわれましたが、どのような洞察力がある人間でも人物を見きわめることはできないということです。ただ主なる神のみが人物を見定めることができます。そのポイントは「心を見る」ということです。そして心が神にしっかりと向いた人物として末息子のダビデが油注ぎを受けます。

・子どもたちのために
 私たちは、親であっても自分の子供の心を正しく評価できないし、十分に育てることはできません。特に心の深いところは、ただ神が支配し、養い育てることができるのです。ですから、私たちができることはただ、神の言葉を教えること、祈ることです。そして、神を恐れる心を持つことは、子どもにとっても何よりも有益なことなのです。

2016/11/6 ピリピ2:1~2 コイノニアの一致



・キリストにある励まし
 「キリストにあって」とありますが、キリスト者は、キリストとのコイノニアに入れられているということを示しています。コイノニアとは、神の民の霊的な交わりです。そこでそれぞれがキリストによって励まし、愛の慰めをうけます。またお互いも励ましと慰めを受けるのです。「愛情と憐れみ」とは深い感情を意味します。互いに、心と魂において結びつき、互いの痛みを痛みとし、喜びを喜びとする交わりのなかに生まれる感情です。

・コイノニアの一致
 使徒パウロは、教会に対して、ただ霊と魂における一致だけではなく、思いと考えと志においても一致を持つように勧めています。霊的にだけではなく、具体的な教会活動においても一致を持つようにということです。教会には、色々な考えと性向を持つ人々が集い、十人十色の状態ですから、その中で一致を持つことは困難な面もあります。しかし、キリストの故に、あえて一致を作ろうとする中で、それぞれの信仰と愛が鍛錬され、喜びが作り出されていくのです。

・世界の光
  詩篇133篇「兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ」とありますが、この「一つの交わりは、今の時代にキリストによって創造された教会の交わりです。私たちは福音宣教と共に、一致したコイノニアを形成して、「世界の光」となるのです。

2016/10/30 ピリピ1:29~30 キリストの苦しみのため



・キリストのために
 「キリストのために」とは、「キリストの恩恵のゆえ」と「キリストに寄与するため」という2つの意味があります。人は誰かの恩恵を受けたり誰かのために、生涯を用いるのですが、キリスト者の基本的スタイルは「キリストのため」です。
 まず「キリストの恩恵」として「キリストを信じる信仰」があります。神が私たちを選んで下さり、心を開かせたので私たちはキリストを信じることができました。その信仰を管として、永遠の生命と人生の幸い、さらには天のあらゆる祝福を受けています。

・キリストのための苦しみ
 また「キリストのための苦しみをも…」とあります。キリスト者は地上では信仰ゆえの困難や苦しみを体験します。それは表面的には辛いものですが、そこに神の恵みのチャンスが隠されています。さらに「苦しみ」はキリストの苦しみとの接点となり、キリストの愛と恵みを深く知る機会となります。

・使徒の戦い/苦しみと
 パウロは「同じ戦いを経験している」と語っていますが、キリストの苦しみを体験する人は、また使徒をはじめすべての信仰者との交わり(コイノニア)に連なり、キリストの苦しみをともにすると同時に、必ず復活の経験を体験することになるのです。

2016/10/23 ピリピ1:27~28 福音にふさわしい生活



・福音にふさわしい生活
 「キリストの福音にふさわしい生活」とは、さながら古代の都市国家のように、福音を規範として神の国の交わりを形成することです。福音は世の法律や律法と異なり、外側から強制するのではなく、内側から生かす教えです。つまり、それぞれがキリストの福音を知り、それによって生かされて、自発的に福音的な交わりを形成することです。

自律自由の交わり
 その交わりは、使徒の存在の如何にかかわらず、福音自体によって形成されるようにと語っています。それはカリスマ的人物や有力者に左右されてはならないということも意味します。そのためには一人一人が日頃から福音に接して自律自由な福音的的な交わりを築くことを心掛ける必要があります。

・霊を一つに、心を一つに
 一人一人が福音にふさわしい生活を志すとき、そこに霊と心の一致が生まれ、教会はしっかりと建てられます。そこに神の限りない祝福が注がれ、神の臨在が顕わになります。そのようにして、教会は世に対してキリストを強力に証することになり、悪の力はそこに入り込む余地すらなくなります。

2016/10/16 ピリピ1:21~26 生きること 死ぬこと



・生きることはキリスト
 生来の「私」は罪と死の奴隷でしたが、新生した「私」にとって「生きることはキリスト」とあります。キリストとの密接な交わり/コイノニアの中にあることを表しています。この交わりは豊かであり喜びに満ちています。また「死ぬことも益」とあるとおり、キリストと共にある生涯の結末も虚しく終わるのではなく、その生涯の報酬として「益」が加えられるのです。

・喜びの板挟み
 「生きることはキリスト」という生涯は、キリストともにということですぐれているだけではなく「豊かな実を結ぶ」とあります。それは死における「益」と対置されています。人は、常に、生きることと死ぬことの狭間におかれているのですが、キリスト者にとっては、どちらも「実」と「益」で満ちていることになります。それはいわば、喜びの板ばさみです。これがキリスト者の豊かな死生観です。

・私の願いと義務
 最後に、パウロは2つの喜びについての選択について証ししています。「世を去ってキリストとともにいることを願う」が、しかし「肉体にとどまることがあなたがたのためには、もっと必要」と。つまり、願いよりもキリストから委ねられた義務を優先しているということです。

2016/10/9 ピリピ1:15~20 キリストのすばらしさ



・問題と痛み
 パウロが投獄された時に福音の前進が見られました。しかし、パウロには、心痛める問題もありました。それはパウロに敵対する分派の宣教活動です。彼らはパウロの投獄をマイナスの宣伝に用いて、反パウロの勢力を広げていたようです。さらに彼らは純粋な動機ではなく、人間的な欲や敵対心によって宣教活動をしていたのです。

・キリストと喜び
 しかし、この痛みも克服され、喜びに転換させるタフな信仰心をパウロは持っていました。つまり分派の敵対活動はパウロの心の痛みでしたが、それだけに囚われず「キリストが宣べ伝えられて」いるということが喜びであるということです。キリストと福音に対する強力な楽観です。

・キリストの素晴らしさ
 パウロは、自分の人生の目標について、次のように語ります。「私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める…」 と、しかもそれが「切なる願いと望み」と語っています。このキリストを第1とする人生観が、結局、苦難と痛みを喜びに転換するエネルギーであったようです。つまりキリストのために苦難にあったとしても、キリストはご自身と共に復活の力と祝福に満たしてくださるからです。