・キリストのへりくだり
パウロはキリスト者の模範的へりくだりとしてイエス・キリストの業をへりくだりとして紹介します。
「キリストは、神の御姿であられる方なのに…ご自分を無にして」とあります。「栄光の姿」は、常識的には、それをはぎ取るなどと言うことは考えられないことです。しかしキリストは固執せずに無にして、反対に「仕える者の姿」をとったのです。人はみな栄光の衣や肩書きを付けたがるのですが、キリストの心は人々に仕えるために逆方法に向かったということです。
・十字架の死にまでも
キリストは人間に仕えるためには、人間の姿をとって地上に誕生しました(受肉)。その極致は、人の罪の身代わりとなって十字架にまでも至りました。十字架は極悪人の刑であり、宗教的には神に呪われた者とみなされました。それは父の神に従ったということですが、同時にご自分で自発的にへりくだり、徹底して仕えたと言うことです。
・へりくだりと栄光
表面的にはキリストのへりくだりの姿は悲惨だけのような気がします。しかし、霊の目を開いてみるとき、そのようなへりくだりは人間には全くできないことに気づきます。また、御言葉をとおして、そのへりくだりが「私」の罪のためであるということに知るのです。そのように、私たちの霊の目が開かれたときに、十字架の姿こそ、神としての姿、また栄光の姿であることを発見するのです。