2016/10/16 ピリピ1:21~26 生きること 死ぬこと



・生きることはキリスト
 生来の「私」は罪と死の奴隷でしたが、新生した「私」にとって「生きることはキリスト」とあります。キリストとの密接な交わり/コイノニアの中にあることを表しています。この交わりは豊かであり喜びに満ちています。また「死ぬことも益」とあるとおり、キリストと共にある生涯の結末も虚しく終わるのではなく、その生涯の報酬として「益」が加えられるのです。

・喜びの板挟み
 「生きることはキリスト」という生涯は、キリストともにということですぐれているだけではなく「豊かな実を結ぶ」とあります。それは死における「益」と対置されています。人は、常に、生きることと死ぬことの狭間におかれているのですが、キリスト者にとっては、どちらも「実」と「益」で満ちていることになります。それはいわば、喜びの板ばさみです。これがキリスト者の豊かな死生観です。

・私の願いと義務
 最後に、パウロは2つの喜びについての選択について証ししています。「世を去ってキリストとともにいることを願う」が、しかし「肉体にとどまることがあなたがたのためには、もっと必要」と。つまり、願いよりもキリストから委ねられた義務を優先しているということです。