2018/3/11 使徒の働き4:1~22 礎の石



・ユダヤの権威
 神殿内でペテロらが福音宣教していたとき、神殿の責任者たちがきて彼らを拘束しました。彼らは使徒たちがイエスの復活について語っているのに困り果てていたのです。翌日、ユダヤ議会が招集され、彼らは大祭司、長老、学者たちの前で尋問を受けます。彼らはユダヤの権威であり、神殿中心の宗教に固執する人々でした。

・ペテロの弁明
 翌日、ユダヤ議会が招集されて、大祭司、長老、学者たちというユダヤの権威が集います。その面前で、使徒たちは「誰の権威、誰の名で語り行ったか」と尋問を受けますが、彼は聖霊に満たされて大胆に、キリストを証します。彼らにとっては、古い名と権威よりは、復活したイエスの権威と名の方が、すぐれていることは、明白でした。

・礎の石
 さらにペテロは詩篇118篇を用いてキリストを証します。「あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となったとはこの方のことです」と。神殿中心の旧体制が捨てて十字架にかけて殺したイエスが、復活して新しい神の国の礎となったということです。見た目には見事でも神殿は貧弱な救いであり、キリストこそ万民の救い、永遠の救いであるということを示しています…事実、約40年後に神殿は破壊され、キリストの教えは万民に届けられることになりました。

2018/3/4 使徒の働き3:1~11 美しい「イエスの名」



・「美しの門」で
 ペテロとヨハネが神殿にある「美しの門」を通ろうとしたときに、ちょうど足にハンディーキャップがある男が運ばれてきました。彼はそこで毎日、施しを求めていたのです。「美しの門」は形と装飾が美しかったのでその名がついたのですが、それは神殿にまつわる神の祝福を象徴する名でした。

・イエス・キリストの名
 男は早速、ペテロたちに施しを求めましたが、ペテロは「金銀は私にはない」と答えます。実際に、彼らは金銭を持ち合わせていなかったし、生活は豊かではありませんでした。さらに続けて「私にあるもの」と言って「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と命じました。ペテロは金銭よりも、さらにすぐれた財産は「イエス・キリストの名」という強い確信を持っていたのです。権威ある「名」は決してむなしくはなく、力があります。ましてや神の子イエスは生きており、その名があるところに永遠の力が現れるのです。

・美しい「イエスの名」
 ペテロが語った言葉と共に「たちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした」とあります。さらに「歩いたり、はねたりしながら、神を賛美し…」とあります。肉体が癒され、神を賛美する心がよみがえったのです。神殿と門の外見は美しかったのですが、さらに美しく喜ばしい「名」はイエス・キリストの名であることが証明された出来事でした。

2018/2/25 ヨハネ福音書2:1~11 水がぶどう酒に



・カナの婚礼
 主イエスは母と共にカナでの婚礼に招かれていました。ところが婚礼の最中にぶどう酒がなくなりそうになったので、母マリヤはイエスが何とかしてくれるだろうと考えて、そのことを訴えました。それに対して主イエスは「あなたは、わたしと何の関係があるでしょう」と突き放しました。もはや息子ではなく、神の子キリストとしての公の立場だったからです。

・イエスの時
「わたしの時はまだ、来ていません」と主イエスは語っています。イエスを招き、イエスもまた喜んで臨在するところでは主イエスは「わたしの時」、絶対的な恵みと救いの時を用意しているということです。その「時」は、主イエスの十字架と復活の奇跡を反映させるような「時」でした。
 この婚姻において信仰者にもたらされる「イエスの時」とは、どのようなものであるか如実に現しているのです。水がぶどう酒に、しかも最良のぶどう酒に変えられた奇跡がそれです。

・私たちの家庭で
 このことは現代に生きる私たちの場合にもそのまま適応できます。特に夫婦関係と家庭生活においては如実です。私たちの場合も生活の中で、いつしか人間ゆえの欠け、弱さ、足りなさが顕わになる事があります。それは物質的にもそうですが、愛や誠実、寛容や忍耐において特にそうです。そのようなときにキリストを心と家庭に招き入れている人々は幸いなのです。その家庭には「イエスの時」があり、「水がぶどう酒に」変えられるのです。

2018/2/18 使徒の働き2:37~~47 心を一つにして



・心を刺され
「人々はこれを聞いて心を刺され」とあります。福音のことばで人は、初めて神の子キリストを知ることができます。また福音は人間の中心にある「心を刺」し通して、自分の罪と悲惨さを自覚させます。聖霊が福音と共に心に働くからです。

・悔い改めとバプテスマ
「悔い改めなさい」とは心を砕き変えること、自己中心からキリスト中心に向けることです。「バプテスマを受けなさい」とは洗礼のことですが、それは単なる儀式ではなく、公の信仰告白であり、心と生活の転換の決意です。これによって古い人は新しい人として神の国の交わりに入ることができます。その人々の心の基本姿勢はキリスト信仰と共に、異質な他者を受ける心です。

・心を一つにして
使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈り…」とあります。昨日まで敵であった者たちが加わったのですが、彼らの交わりは他者を排除しない交わりでした。「昨日の敵は今日の友」です。

 彼らは信仰の心も一つでしたが、  「心を一つにして」とあるとおり志においても一つとされ「喜びと真心」に溢れた集団でした。この姿こそ古い裁きあいの集団とはまったく別個の集団、キリストによる新約の群れでした。

2018/2/11 使徒の働き2:22~36 あなたがたが十字架に



・神があなたがたに
 ペテロは集まってきた群衆に説教を続けています。その内容は、ナザレ人イエスこそ、神があなたがたのために与えたキリストであるということです。その証拠として地上の公生涯において「力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇跡を行われ」たということでした。そのイエスは結局は、十字架につけて殺されます。

・復活による証拠
しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました」とあります。死者の中からの復活を通して、神はさらに強力なイエスこそ神の子キリストであるという証拠を示します。ペテロはまた、詩篇16篇によって、復活の預言を示して、「イエスこそキリスト」の証明を補強しています。

・あなたがたが十字架に
 最後に「イエスを、あなたがたは十字架につけたのです」とユダヤ人の群衆に言葉を向けます。神は与えられたのに、あなたがたは退け、十字架につけたと、彼らの罪の深刻さを顕わにしています。
 私たちは、「あなたがた」とはただユダヤ人だけに限定してしまいがちです。しかしそれはすべての人がそうであり、現代の私たちもそれに当てはまることを覚えなければなりません。つまり私たちもかのユダヤ人たちと同じように、神に反逆するエゴと罪を持っているからです。

2018/2/4 使徒の働き2:14~21  ヨエルの預言から



・「ヨエルの預言」から
 聖霊降臨の物音で集まってきた人々に対して、使徒たちと共に立ったペテロは第一回目の説教をします。彼はヨエルの預言を引用して、彼らに起こった出来事を説き明かします。それは時代の意味、教会の意味を鮮明に示すものでした。

・「終わりの日に」
 ヨエルの預言は「終わりの日」「主の日」の出来事について示しています。それは旧約の時代が終わったのちに到来するもので、最後の審判間近の時です。この時に起こる現象が「わたしの霊をすべての人に注ぐ」でした。旧約時代には限定的に預言者らに注がれた神の霊が、すべての民に注がれるということです。
・「主の名を呼ぶ者は…」
 「主の名を呼ぶ者は、みな救われる」とあります。「主の名」とは、主なる神ご自身の事で、さらに啓示を通して明らかにされた所の神ということです。イエスは人となった神で、父の神をそのまま啓示された方です。彼の名こそが「主の名」です。

・教会と宣教
 聖霊降臨に始まる時代は教会の時代といってよく、教会において礼拝が献げられ、教会を起点に宣教がなされるのです。その内容は「イエスこそ神の子キリスト」です。そのようにして、最後の審判から救われる唯一の道を示すのです。
 

2018/1/28 使徒の働き2:1~13 聖霊がくだる



・五旬節(ペンテコステ)
 「五旬節」とは過越の祭りから50日目の祭りで、旧約ではモーセが律法を受けた日とされています。弟子たちは主イエスの命令通りにエルサレムに留まり「一つの所に」集まっていました。彼らはみ言葉を聞き、祈り、賛美する集団でした。この集まりは教会の原型といえます。そして教会にはいつの時代にも、キリストの恵みの約束が実現します。

・聖霊がくだる
 聖霊は突然、彼らに下りました。「天から、激しい風が吹いてくるような響き」「炎のような分かれた舌が…ひとりひとりの上にとどまった」とあります。誰も疑うことがないように、聴覚的に視覚的に明瞭に分かるように聖霊がくだったのです。

・聖霊に満たされて
「みなが聖霊に満たされて」とあります。信じ、集った「みな」が満たされたのです。彼らはそれぞれが導かれた言語で神をたたえ、キリストを証ししたようです。それは聖霊によって全民族が神によって受け入れられて福音が提供されたことを示します。また聖霊は一人一人の内に働いて、志を立てさせて、その人ならではの証しを委ねられたことを意味します。
 そのことはまた、現代の私たちの内にも聖霊が下って満ちており、一人一人をキリストの証しに召しておられることを意味します。

2018/1/21 使徒の働き1:6~13 教会と証し



・神の国とは?
 弟子たちは主イエスに対して、イスラエルの国を再興することについて問うています。彼らはイエスによって神の国が創設されることを信じていたのですが、それは目に見える王国で、地の国のように力と敵意によって創られると考えていたのです。主イエスが地上に留まっているかぎり、弟子たちは誤りから解放されることがなかったのです。

・聖霊と神の国
 そこで主イエスは「聖霊が望まれるとき」に神の国が地上にもたらされることを約束します。聖霊は目に見えない神で、父と子の神から送られる方です。その時に、人は正しく神のことばを理解し、新しい人に創り変えられます。「力を受けます」とはみことばの理解の力と証しの力ということです。肉的な人ではなく、聖霊によって真実の神の国を創ることができるのです。

・教会と証し
「…地の果てまでわたしの証人」とあります。「証人」とは見たこと、体験したことをそのまま証しする人のことです。ですから、「キリストの証人」とはキリストと御業をそのまま証しする人のことです。教会はキリストを証しする群れであり、その証しによる神の国です。
 世の中には色々な集団や団体がありますが、教会は、力や敵意によるのではなく、ただキリストの証しと愛と和解の務めを担い、神の国の働きを担うのです。

2018/1/14 使徒の働き1:1~~5 キリストの証人ABC



・使徒の働きと著者
 使徒の働きの著者は、ギリシャ人の医者ルカです。彼は福音書においてイエス・キリストの「行いの始め」について書き、使徒の働きでは、その後のことを記しています。

・キリストの証人…目撃と聖書
 「イエスは…四十日の間、彼らに現わて、神の国のことを語りご自分が生きていることを使徒たちに示された」とあります。弟子たちが肉眼で見、聖書全体からキリストの復活を確信するように訓練したのです。

・聖霊のバプテスマ
 主イエスは聖霊のバプテスマについても語っています。ヨハネのバプテスマは「悔い改めと洗い」のしるしの儀式でした。「聖霊のバプテスマ」は単なる儀式ではなく、聖霊が罪を焼き尽くし、その人をまったく新しい人に変革する出来事です。それはキリストの復活を信じた人々に約束された霊でした。

・キリストの証人ABC
 最初の弟子たちは、このようにキリストの証人としてのABCによって訓練されて、やがて大々的な宣教活動を繰り広げることになります。私たちの場合は、キリストを肉眼で見ることはできません。しかし聖書と信仰生活から復活について確信を強め、心の目でキリストを見る経験をつんできました。すべてキリストの証人としてのABCの訓練でした。今は、さらなる聖霊の満たしを待ち望むだけです。

2018/1/7 イザヤ40:27~31 新しい力を得て



・主を見上げる
 私たちは、つい失望したり、つぶやいたりすることがあります。そのようなときにはいつの場合にも、近視眼的に物事を見ているときです。そのようなとき、視線をかえて主を見上げることが大切です。主を見るとき、主について聞くとき、私たちはいつの場合でも、まったく別の世界に招き入れられます。

・永遠の神
 「主は永遠の神、地の果てまで創造された方」とあります。「永遠の神」いつの時代にも、どこにいっても神であるということです。神にとって隠れているところはなく、その力がおよばない部分はありません。しかも「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける」とあります。神はいつの時にも、「疲れた者」「精力のない者」小さな者、貧しい者たちに力を与える神として厳として存在します。

・新しい力を得て
主を待ち望む者は新しく力を得」とあります。主なる神を待ち望むことは信仰者の基本姿勢です。その姿勢さえ保てば、新しい力を得ることができ、そこからスタートするのです。
 「鷲のように」とありますが、神がくださる生命力は野生の中に見いだすこともできます。鷲はじっと待ち望むことによって、前よりも優れた新しい翼を獲得します。それによって勢いよく、気流をとらえて舞い上がることができるのです。

2017/12/28 詩篇146編 主をほめたたえて



・主をほめたたえよ
 「ハレルヤ」の「ハレル」とは「ほめたたえる」「ヤ」は「ヤーウェ/主」を短縮したことばです。さらに「主をほめたたえよ」と、同じ命令がくり返されています。それは強い呼びかけと言うことです。「私のたましい」とは「私の中心」です。また「わたしは生きているかぎり、主をほめたたえよう」と、人生のすべてで主なる神をほめたたえ、賛美する決意を表しています。

・人間に頼ってはならない
 「君主たち」とは力と能力ある者たち、さらに私たちの場合は国家ということになります。それは万能で「ゆりかごから墓場まで」私たちの福祉を支えてくれるという錯覚がありますが、人間が作った者であるかぎり脆いのです。また家族や友人でも人間であるかぎり依存しきることはできません。そこから失望、恨み、つぶやき、ねたみの悪も起こってくるのです。

・主をほめたたえて
 さらに詩人は、「主に望みを置く」幸いについて語っています。主なる神だけが、私たち小さい者に目を留めて、恵み、支え、救ってくださるからです。
 世の中では、大晦日に大掃除をし、また除夜の鐘を聞きながら煩悩を取り去るということを言います。しかし私たち神の民は、主なる神以外の誇りや執着を除き去り、ただ主のみを賛美することで心を満たすべきです。初めも「主をほめたたえよ」と始まり、終わりも「主をほめたたえよ」でというのが神の民の生のスタイルです。