2014/9/7 ヨハネ福音書10:7~10 わたしは門です



・わたしの前に来た者
 羊飼いは、早朝、時間通りにやって来るのですが、その「前に来た者はみな、盗人で強盗」です。つまり、当時の祭司と律法学者たちのことを指しています。しかしまた、イエス・キリスト以外のすべての異教・異端もまた「前に来た者」といえます。彼らは外見は、如何に立派でも、また世の多くがそちらの方に靡くとしても、本質は「ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけ」です。

・わたしは門
 「わたしは門です」とあります。わたしとは主イエスのことですが、この言葉を通して、ご自身を天国に至る唯一絶対の門であると啓示しています。「わたし…です」はヨハネ福音書で多用される表現で、出エジプト3:14により「わたしはある」と名乗った主なる神を意味します。
 また「門」は天から地上に下ったへりくだった優しい門です。十字架の姿は私たちを愛し、私たちを切に招き入れようとする門です。そしてイエスを信じる者はすべて、そこに入ることができます。

・いのちを得るため
 「安らかに出入りし、牧草をみつけます」とあり、「羊がいのちを得、またそれを豊かに持つため 」とあります。それらは主イエスの元にある自由と平安、またいのちの賦与を示しています。「いのち」とは天の生命/永遠の生命です。それは地上の生命をも生かすすぐれた生命です。主イエスの元では地上でも、後の世でも、私たちは生命を豊かに持つことができるのです。

2014/8/31 ヨハネ福音書10:1~6 羊は声を聞き分ける



・盗人と強盗
 主イエスは、当時のユダヤ社会とは異なる新しい神の民のイメージについて描いています。それが羊飼いと羊の群れです。
 「盗人強盗」とありますが、それは第1に、当時のユダヤ社会の宗教家たちのことです。彼らは神によって派遣されたのでもなく、聖書に従っていない教師たちです。表面は威厳があるのですが、実態は、羊を奪う輩です。第2には、偽預言者、偽使徒、偽教師、異端の輩です。それは今も昔も、隙を狙って、羊の群れに忍び込もうとしています。

・羊の牧者
 「門からはいる者は、その羊の牧者」とあります。「門」とは、神が定めた正規の入口のことですが、それは神の証言、聖書の証言に合致していることです。主イエスは、まさにその方で、神の牧者です。
 また正規の牧者であるだけではなく、良い牧者です。つまりその民一人一人を知り尽くし、愛し、養い導くことができる方ということです。

・羊は声を聞き分ける
羊はその声を聞き分けます」とあります。羊は弱く、無知で、自己判断ができないのですが、ただ牧者の声を聞き分けるという能力だけは、与えられているのです。
 丁度そのように、神の民も、霊的なこと、目に見えない道について、自分では知ることができません。しかし、主イエスの声を聞き分けるという賜物だけ与えられています。それは、聖書の福音に安心と平安を持つこと、そして自発的に従う心です。
 このようにして、主イエスは、古いユダヤ社会とは異なる、愛と人格で結ばれた神の民を作りだしたのです。

2014/8/24 ヨハネ福音書9:35~41 盲目が見えるため



・盲人だった者の改心
 盲人だった者は、パリサイ人らの強要を退け、自分の証を貫いたために、ユダヤ人社会から追放されました。彼は、罪人として霊的にも盲目とみなされたということです。
 しかし、主イエスは、彼を見つけ出し、彼の肉の目だけではなく、霊の目を開きます。それによって、彼はイエスを信じ、さらには「イエスを拝した」とあります。

・イエスの裁き
 主イエスは「わたしはさばきのためにこの世に来ました。」と語っております。主イエスがいうところの「さばき」とは、最後の審判における裁きとは異なり、認識におけるさばきということです。主イエスという神の光の中で、世の真偽、善悪が、完全に、逆転するのです。そして世において真とされているもが偽り、世において善とされている者が、悪とされるのです。そのさばきは、最後の審判に、そのままつながります。

盲目が見えるようになるため
 主イエスのさばきは、具体的には「目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるため」とあります。
 つまり、神の前で自分が盲目で何も見えず、何も分からないと認めて、主イエスの元に来る者は、心の目が開かれて見えるようになり、永遠の生命に至るということ。
 他方、世において自分を知者であると思って慢心し、主イエスの元に悔い改めることが無いものは、神の前で愚かとされ、永遠の罪に定められるということです。

 私たちは自分が盲目であることを認めて、切に、主イエスの光に照らされるを求めるべきです。

2014/8/03 ヨハネ福音書9:1~7 神の業が現れるため 



・生まれつきの盲人
 道の途中、弟子たちは、生まれつきの盲人を見たときに、その災いの原因は何かについて、主イエスに尋ねています。当時は、誰かの罪の結果、現在の災いや不幸が起こっていると考えられていました。この因果応報の考えは、私たちの社会でも根強く存在し、人を責め、自分を責めて、不幸をさらに深める結果になっています。

・神の業が現れるため
 「神のわざがこの人に現われるため」とは、主イエスの考え方です。神は、不幸や災いを契機として、その人を恵みの対象として覚えられ、その人に恵みの業を現されるのです。確かに、恵みの神に対する信仰の目を開けば、それは事実で、すべての不幸をプラス思考で捕らえていいことが分かります。

・キリストの光のもとで
 私たちキリスト者は、この神の業が自分自身に現されることを信じて生きる者として、またこの神の業を周囲の人々に証するように召されています。
 そのためには、キリストという神の光に対して、心の目を開き、強い信仰を持って歩むことが大切です。

2014/7/27 ヨハネ福音書8:51~59 アブラハムが見た栄光の日



・死を見ない
 「わたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません」とあります。
  「わたしのことば」とは、主イエスの福音です。福音はいわば、生命の種であって、地上の生命に蒔かれ、永遠の生命の実をならせます。それは霊的な生命ですが、霊の生命は肉に先んじており、霊の生命を与えられている人々は、肉体の死も、本当の死ではないのです。

・アブラハムが生まれる前から
 主イエスは旧約以来、一貫して神の民を導いてこられた主なる神であることを、再三示します。「アブラハムが生まれる前から、わたしはいる」という言葉は、そのことを示します。そのようにして、主イエスは

ユダヤ人を初め、すべての人が、彼を通して、罪と死の支配から救おうとされているのです。

・アブラハムが見た栄光の日
アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました 」とは創世記15章に記されている場面です。神はアブラハムの救いの完成の日を啓示されました。アブラハムはその栄光の日を遙か未来に仰ぎ見て信じたのです。
 「わたしの日」とは、主であり、神の子キリストの到来の日、また十字架で贖いが完成する日です。その救いにより、死の力は打ち破られるのです。その救いは、福音により、ユダヤ人を初め、すべての国民に提供されています。21世紀に生きる極東の私たちにも提供されています。

2014/7/20 ヨハネ8:31~47 真理は自由に



・「わたしのことばに」
 主イエスは、信じたユダヤ人たちに対して「わたしのことばにとどまる」ことで弟子となることを示します。上辺だけの信仰では「岩地に落ちた種」のようにすぐに枯れるからです。「とどまる」とは、福音の言葉を信じて学び、それを心に形作っていくことです。

・真理を知る
 真理とは「現象の背後にあって決し変わらないもの」を意味します。ユダヤ人たちは律法が「真理と知識の具体的な形」と信じていました。しかし律法は人の外側から命令するだけの文字に過ぎません。主イエスは、私たちの内に形作られて「知られる」真理について語っています。それは第1にご自身のことであり、またそれに伴う内なる恵みと力です。
・真理は自由に
 「真理はあなたがたを自由にします」とあります。自由とは身体的な自由のことではなく、内面的、霊的な自由のことです。それは第1に罪からの自由を意味します。生まれながらの人はすべて罪の奴隷です。それは律法を持っているユダヤ人も私たちも同様な悲惨な状態です。しかし、真理であるキリストとみ言葉を心に受け入れ、形成していくときに、キリストに働いた自由と生命が私たちにも働くようになるのです。

 そこで宗教改革者のルッターは次のように語っています。「それゆえに、言葉とキリストとをよく自己のうちに形成し、この信仰をたえず鍛錬し、かつ強からしめることが、当然すべてのキリスト者の勉べきただ1つの行いであり修行でなければならない。」*「キリスト者の自由」より 

2014/7/13 ヨハネ福音書8:21~30 十字架を見上げる



・「上から」と「下から」
 主イエスはユダヤ人たちに対して「あなたがたが来たのは下から」と語ります。それは土から造られたアダムの子孫であること、罪の支配におかれて死に定められている者という意味です。
 「わたしが来たのは上から」とは、主イエスは見た目は普通の人間ですが、その霊的本質では天から来られた神の子であることを意味します。「上からの者」と「下からの者」とでは、生命の質は雲泥の差です。

・信じなければ
  「わたしのことを信じなければ」とあります。イエスが神の子キリストであることを信じるということです。人はただ信仰によって、「上から来た」キリストに結びつき、永遠の生命に預かることができ、死と滅びを免れます。人は自分の行いや努力などによって「上に」這い上がろうとするのですが、神が定めた「上に」至る手段はただ1つで、ただ「上から来た方」を信じることだけです。

・十字架を見上げる
 「あなたがたが人の子を上げてしまう」とは、十字架につけられることを意味します。それだけではなく、私たちが心の中で、十字架につけられたキリストをしっかりと「見上げる」時と言うことも暗示されています。ともかく、十字架上において、イエスは神の子キリストであることがより鮮明に示されるということです。単に神の子と言うだけではなく、私たちを愛し、私たちの罪のために下られ、上げられた方という感動と共に知らされます。

2014/7/6 ヨハネ福音書8:12~20 わたしは世の光



・仮庵の祭りと光
 仮庵の祭りには、神殿の庭に大きな燭台がともされました。それは荒野の旅の際に主なる神が「昼は雲の柱、夜は火の柱」となって民を導いた出来事を記念するものでした。事実、荒野の民は、そのようにして神に導かれて無事に約束の地に到達できたのです。

・わたしは世の光
 旧約の故事は全てキリストの予型です。そこで主イエス・キリストは「わたしは世の光です」と宣言しています。世は霊的に全くの暗闇で、そのままでは人は滅んでしまうのです。しかし、主イエスは唯一の光として輝き、人々を救いへと導きます。「わたしは…です」とは、絶対的な存在者であることを示す言葉です。つまり、私たちがどのような試練の中でも、どのような絶望や死の淵に置かれている時でも、主イエスは何にも妨げられずに光り輝き、私たちを、救い出すという事です。

・いのちの光を持つ
 「わたしに従うものは、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つ」とあります。私たちはただ、キリストを外に輝いている光として見ているだけではありません。彼を信じて、従うときに、彼は私たちのうちにとどまって、私たちを照らす光となってくれます。そして、困難な地上の生涯を照らし続けて、正しい道を示し、また励ましとなり、力となります。さらには、後の世に続く生命を育んでくださるのです。