2014/5/11 1サムエル1:1~11 ハンナの祈り



・ハンナとペニンナ
 今から、3000年前の旧約聖書の物語です。エルカナには2人の妻があり、一人はハンナ、一人はペニンナと言う名でした。ハンナには子供がなく、ペニンナには何人かの子供がいました。ペニンナは子供のない事でハンナを苛立たせました。夫エルカナはハンナを愛していたので慰めますが、ハンナの悲しみと心の痛みは決して人によって癒されることはありませんでした。

・ハンナの祈り
 あるときもペニンナのいじめがひどく、耐え切れずにハンナは神の前に、激しく泣きなら祈りました。それまでも祈ることがあったのですが、その時には、特に心を注ぎ出して祈り、しかも神に対して誓願を立てました。「主よ。もし、あなたが…このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。」と。ハンナの祈りは、主なる神に聞き届けられ、彼女は1人の男子を授かり、その子は、混迷の時代に、民を導く預言者となりました。

・痛みと祈り
 人には色々な心の痛みがありますが、中には神によってでなければ、慰められることがない痛みがあります。その時に、人間的慰めを求めたり、自分で悩んだりするのではなく、神の前に心注いて祈ることが大切です。また神ご自身も、私たちが祈りを通してご自身の御前に出ることを願っておられるのです。

2014/5/4 ヨハネ福音書6:51~59 主イエスの肉と血



・躓き
 「わたしが与えようとするパンは…わたしの肉」という言葉に、ユダヤ人たちは躓きます。彼らは主イエスが語る言葉の霊的な意味についてまったく分からないのです。
 しかし、目に見えない真理について主イエスは「たとえ」を用いてしか語ることができないのです。

・人の子の肉を食べ、血を飲むとは
 「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければとは、主イエスの十字架の犠牲によって差しだされた生命を受け取ることで、永遠のいのちが獲得されるという意味です。「肉を食べ」「血を飲む」とは、そこで完全な生命が提供されることを意味します。従って、それを受け取る者もまた、その食べ物を第1の食物とすることになるのです。

わたしの内に、彼の内に
 「わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちに 」とは、キリストが与える生命とは、どのようなものであるかを示します。それはキリストと「私」との、神秘的な結合を通して与えられる生命であるということです。 

・贖いを体得する
 私たち信仰者は、継続的に「キリストの肉を食べ、血を飲む」ということを通して、ますますキリストの贖いの尊さを覚えることになります。同時に、私たちもその贖いの愛に対して、自発的に応答する者とされていくのです。

2014/4/27 ヨハネ福音書6:41~51 父の招き



・つぶやきと限界
 ユダヤ人たちは「天から下ってきた」という主イエスの言葉に躓き呟きます。彼らは肉的で地上のことだけにしか、心が向けられていなかったからです。
 これは、ユダヤ人だけではなくすべての人間がおかれている限界です。私たちは生まれながら目で見、耳で聞いたことだけしか信頼しません。大人になるに従って経験が蓄積され、地上のことしか受け入れない体質が身についているのです。

・父の招き
 しかし人間にはできないことを神はしてくださいます。つまり、人間からは父の神も主イエスの真理も知ることはできませんが、父の神の方から「引き寄せる」ことによって、父を知るものとされていきます。つまり聖霊によって心が照らされて、イエスが神の子キリストであることが顕わにされるのです。
 
・終わりの日の甦り
わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます」とあります。私たちは地上においてキリストを通して神を知らされ、永遠のいのちの種を得ます。そして「終わりの日」に新しい体の甦りという実を得るのです。私たちはこの最終目的に向かって、地上の生涯を生きていきます。

・私たちも自発的に
 私たちは「父が引き寄せて」くださるということを覚えて、怠惰になるのではなく、むしろその愛を覚えて、私たちも「神とキリストを知ろう」応答していくことが大切です。

2014/4/20 ルカ福音書24:13~35 エマオへの途上



・エマオへの途上
 主イエスが復活したその日、2人の弟子がエマオの町に下っていく途中でした。そこに主イエスが現れたのですが、彼らは心が閉ざされていたために気づかず、心を暗くしていました。肉のままの人は、復活の主イエスが側にいたとしても、それと気づくことがないのです。

・聖書全体から解き明かす
 そこで主イエスは「聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされ」ました。さらに、エマオで、彼らは主と共に食事をしましたが、その時にようやくキリストを認めることができたのでした。それは聖書を通してキリストを信じ、互いの交わりを持つ者たちの中に聖霊が働いて、新しい人にしたからです。
 
・心は内に燃えて
「…聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
 聖書はただ読むだけでは、何の力もないのですが、キリストの光の下で読むときに、その意味が明らかにされ、そこに宿される復活の生命が読む者の心に注がれます。それによって、死んだように絶望状態の者の心でさえも、燃やされ、新しく生かされるのです。

・私たちも心燃やされる
 エマオ途上の2人の弟子は、私たち信仰者の姿です。聖書からも信仰の交わりからも離れている時、目は遮られ、心は暗くなります。しかし聖書に向かい、そこにキリストを見いだすことによって、心燃やされ、新しい展望を得るのです。

2014/4/13 ルカ22:39~46 ゲッセマネの祈り



・ゲッセマネの祈り
 十字架前夜、主イエスは弟子たちと共にオリーブ山のゲッセマネの園で祈りの時を持ちました。そこは静かな場所でしたが、主イエスにとっては霊的な激戦地となり霊の「空間が歪む」ほどの激しさでした。

・杯を取りのけて
 主イエスの初めの祈りは「この杯をわたしから取りのけてください」でした。主イエスは人間となり肉の弱さを持っていたので、「わたしの願い」として、どうしても十字架の苦しみは避けたかったのです。しかし、父の神のみこころは変わず、わたしの願いは厳として拒絶されたのです。

・わたしの願いではなく
 しかし、主イエスの祈りの基本姿勢は「わたしの願いではなく、みこころのとおりに でした。このためについにはご自分を徹底的にへりくだらせて父の御心に従う決意をしたのです。それは屈辱であり、苦難の道でしたが、父の御心に従う決意をしたときに、新たな力と展望に満たされました。

・私たちの恵みの御座
 ゲッセマネの祈りは、私たち信仰者の祈りの助けと模範のためと言えます。ヘブル4:15「大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」とありますが、私たちも試練の中で誘惑に陥らないように祈りの座に着くべきです。そこはもはや孤独や苦難に満ちた場ではなく、主イエスの助けと励ましと導きの座となっているからです。

2014/4/6 ヨハネ福音書6:30~40 わたしがいのちのパン



・「天からのパン」解釈
 「群衆」は主イエスに対して「天からのパン」を求めます。しかしその内容は肉的であり、ただ自分たちの欲望を満たすための要求でした。
 そこで主イエスは、彼らの理解の誤りを指摘します。旧約聖書ではマナなどの肉の食べ物が与えられましたが、そこで暗示されていることは霊的なことであると言うことです。

・天からのまことのパン
 主イエスは「天からのまことのパン」を与えると語ります。それは霊的なパンで、それこそ「天からのパン」です。そしてすべての時代に、すべての人間の心に生命を与えるのです。生命とは永遠の生命(ゾエー)で地上のいのち(プシュケー)と異なります。
・わたしが生命のパン
 さらに「わたしがいのちのパン」と主イエスは語ります。「わたしは…です(エゴ エミー)はヨハネ福音書で7回出てきます。いずれも主イエスが絶対的存在者、神であることを示します。また「わたし」と語られるのは「あなた」に対してであり、あなたとの絶対的関係を求める啓示です。ここでは「あなた」にとって絶対的な生命のパンであることを示しています。

・わたしに来る者は
 「わたしに来る者」「わたしを信じる者」とは、目に見えない主イエスを霊の渇きを覚えて求め、その言葉を信じる者のことです。その人は彼の「生命のパン」を受け、「決して飢えること」も「渇くこと」もないのです。

2014/3/30 ヨハネ福音書6:22~30 無くなる食物 生命の食物



・群衆
 翌日、群衆は主イエスを執拗に追い求めました。彼らはパンの奇跡を通して主イエスの力を知り、主イエスを王に担ぎ上げて、ユダヤ国家独立を成し遂げようと考えていました。しかし、その動機は、純粋な信仰ではなく、世的野望でした。

・なくなる食物のためではなく
 主イエスは彼らに対して、その求道の誤りを鋭く指摘し、さらに語ります。「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。
 確かにパンは無くなり、それを食べて生きる地上の生命も滅び去ります。そのためにだけ、努力しても、その生涯は空しいものとなります。


・生命の食物のため
 「永遠のいのち」とは神由来の生命のことです。無くなることも滅びることもなく、それを持つ者を神の子とし、彼の内に聖さと正しさと愛を生み出す生命です。
 人は元々、神のかたちに似せて創造されましたが、それは単に地上の食物を得ることで、確立するのではなく、永遠のいのちを獲得することによって完成するのです。

・イエスを信じることだけ
 永遠のいのちを得る手段は「神が遣わした者を信じること」とあります。つまり、永遠のいのちは、人間の方から様々な業を積み上げて獲得できることではなく、ただ主イエスを信じるだけと言うことです。主イエスのみが真正な神の子なのです。