・ある金持ちの役人
「ある役人」が主イエスのもとにきて「永遠のいのち」獲得の手段について、質問しています。「役人」とは、ユダヤ議会の一員、あるいは指導者の一員のことです。彼はイエスのもとに来て、イエスのような尊い存在となり、それでもって永遠のいのちを獲得できると考えいました。しかし、それは彼の思い上がりであり、浅はかな神観に基づく願いでした。
・1つ欠け、すべての欠け
主イエスは役人の浅はかな考えを指摘しています。「尊い」とはただ神だけで、人間に使うべきではないのです。神と人間との間には永遠の乖離があります。
さらにまた彼は律法を「守っております」と主イエスに対して返答していますが、それも思い上がりであり、表面的には守っているように錯覚していても、その本質からは程遠かったのです。つまり一つの欠けは、全体の欠けなのです。役人は「持ち物を全部売り払い…」の言葉を聞くと「非常に悲しんだ」とあります。
・ラクダと針の穴
「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしい」とありますが、たしかに人間的な善行と蓄財によっては神の国に入ることも、永遠の生命を獲得することもできないのです。ただ必要なことは、イエスを神の子キリストと心から信じて、一切を神に差し出すことだけです。「人にはできないことが、神にはできるのです。」
2022/3/27 ルカ福音書18:18~27 ある金持ちの役人
2022/3/20 ルカ福音書18:15~17 子どもと神の国
・子どもたちが
「人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た」時のことが記されています。弟子たちは、幼子たちはイエスには相応しくないとして、それを妨げようとしました。彼らは、子どもたちは無力で、価値がなく、主イエスの宣教の妨げになると考えたからでした。 その弟子たちの考えと態度は、この世の中では一般的なものです。
・子どもと神の国
「しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて」とあります。イエスの思いは、弟子たちの思いとは、いつの場合でも、異なっているようです。さらにこの機会を捉えて、「神の国は、このような者たちのものです」と真理を明らかにしています。神の国とはイエスの福音の中心テーマでしたが、弟子たちにはなかなか理解しにくい世界でした。しかし幼子たちの姿と態度は、まさしく神の国に招かれる者たちのあるべき姿と態度そのものだったのです。
・子どものように神の国を
「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
「子どものように」とは、自らの無力さの自覚、全面的に相手を信頼する心と態度です。神がイエスを通して無償で神の国を提供しておられます。その神の国に入る者たちの資格は、何かの能力や功績を差し出すのではなく、ただ自分の無力さを覚えて、信頼して受け入れることです。
2022/3/13 ルカ福音書18:9~14 自分を高くする者は
・自己義認の誤り…パリサイ人
主イエスは「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たち」の誤りを示すために例話を語ります。その例話で語られるのは「ひとりのパリサイ人」です。彼は宮に登って祈るのですが、隣の取税人を見下し、自分の義を神の前に主張しています。「この取税人のようではない…私は週に二度断食し…十分の一をささげております」と。
・ある取税人
「ところが、取税人は遠く離れて立ち…自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」とあります。取税人とは、ローマ帝国のもとでユダヤ人から税を取り立てる人々でした。彼らは律法を知らずアウトロー、罪人として、人々に蔑視されていました。そこで彼は神の前に相応しくない罪人であると自己認識をして、ただ神にあわれみを求めています。
・自分を高くする者 低くする者
「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。」と、主イエスの言葉は、いつでも人の思いと異なっています。神の御前ではいつでも「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」。
この例話は単に、パリサイ人のことを語っているだけではなく、キリストの弟子たちに対する警告として語られています。私たちも人との比較で自己義認する体質があるので、注意しなければなりません。
2022/3/06 ルカ福音書18:1~8 失望せずに祈る
・失望せずに祈る
主イエスは弟子たちの基本姿勢として「いつでも祈るべきであり」と教えています。祈りは創世記以来、堕落した人間が神との接点をもつ唯一の手段でした。また信仰者たちが具体的に神の臨在と恵みを信じて生活する姿です。また「失望してはならない」とありますが、失望感に打ち勝って祈り続けることで、信仰が純化され、実際に神が、祈りにこたえてくださるからです。
・尊大な裁判官とやもめ
主イエスは絶えず祈ることの大切さを悟らせるために尊大な裁判官とやもめの話をします。その裁判官は「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」だとしても、やもめが繰り返し訴え続けるなら、根負けして訴えを取り上げるというのです。絶え間ない訴えには、だれでも腰を上げることになるのです。
・まして神は
「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のために…」とあります。 確かに旧約聖書以来、神の民は困難に直面してきました。詩篇にはその時の切なる祈りが記録されています。そして神は、たしかに選民の祈りのとおりに救い主を遣わしてくださいました。それは現在も、未来も、全く同じです。
私たちも色々な困難に直面していますが、そのときこそ失望せずに祈ることが大切です。神は速やかに祈りに答えてくださり、またキリストの再臨で、さらに大きな救いを与えてくださいます。
2022/2/27 ルカ17:22~37 人の子の日に
・人の子の日
主イエスは「人の子の日」がどのようにして到来するかについて、弟子たちに語っています。「人の子の日」とはキリスト再臨の時という意味です。
再臨までにいろいろな偽キリストが出現しますが、それに惑わされないよう注意します。さらに「人の子」は「いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように」到来すると預言しています。
・ノアの日、ロトの日
その時は「ノアの日に」あるいは「ロトの時代に」に起こったことと同様です。「人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て」とあり、「…売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが…火と硫黄が天から降って」すべての人を滅ぼしたのです。
・ 人の子の日に
そこで主イエスは「ロトの妻を思い出しなさい」と心の備えを促します。ロトの妻は御使いの忠告にもかかわらず「うしろを振り返った」ために裁かれて塩の柱になりました。そのように「自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保つ」のです。
私たちの時代も「食べたり、飲んだり…売ったり、買ったり、植えたり、建てたり」している時代です。しかし、私たちは日常の営みの中でも、聖書の歴史を貫かれてきた真理を覚え、未来に対しての正しい展望を持つべきです。つまり世の者は滅び、ただキリストにある者だけが生命を得て残されるということです。