・安息日/パリサイ人の家
ある安息日に、主イエスがパリサイ人の家で食事に招かれたときのことです。パリサイ人らは、イエスの一挙手一投足に注目していたことが記されています。彼らは「イエスの真正面に、水腫をわずらっている人」をあえて座らせて、癒やしの瞬間をとらえて、非難しようとしていたのです。 彼らは律法を、ただ自己義認のための手段として、ただ規則だらけの束縛の世界を作っていました。
・水腫の人の癒やし
「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか。」 主イエスは彼らの魂胆を察して機先を制して問いかけています。彼らが沈黙していることを見て「イエスはその人を抱いて直してやり、そしてお帰しになった」とあります。イエスの癒やしは肉体だけではなく全人格的であり、水腫の人は癒やされて、罪と律法の束縛から神の救いと愛の世界に復帰させたのです。そして主イエスは、癒やした理由について、例外規定を引用して、安息日の基本精神は「愛とあわれみ」であることを示しています。
・信仰と愛による転換
人間は罪人であるため、どのような律法もただ人間疎外の規則にしてしまうだけです。ただ主イエスを受け入れることで、その誤りは克服され、さらに優れた行動基準を獲得します。「キリスト・イエスにあっては…愛によって働く信仰だけが大事」ガラ5:6とあります。私たちもキリスト信仰とともに、愛を中心とした世界をつくりましょう。
2021/10/24 ルカ福音書14:1~6 水腫の人の癒やし
2021/10/17 ルカ13:31~35 ああ エルサレム
・きょうもあすも
パリサイ人らが「ヘロデがあなたを殺そうと思っています」と恐怖心を吹き込んで、み働きを挫こうとしました。それに対して主イエスは「わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません」と答えます。そこには神によって派遣された者の徹底した献身姿勢が見られます。
・神の都エルサレム
「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえない」とあります。エルサレムはダビデ契約により神殿が据えられ、神の都とされた町であり、旧約の民の象徴とされた所でした。それで神はこの町を愛し、預言者たちを遣わして、神のことばを告げた町でした。また最後の「預言者」イエスもまた、エルサレムに死を覚悟して向かっていました。それもすべて神の愛のゆえでした。
・ああエルサレム
「ああ、エルサレム、エルサレム」と主イエスは嘆きのことばを発しています。神が愛ゆえに預言者たちを、さらに神の子キリストを遣わしても殺してしまうことを嘆き、またそれ故に滅びを招くことになることを嘆いています。実際に、その予見のとおりとなり、現代にいたるまでエルサレムは荒廃しています。
私たちは新しく招かれた新約の民ですが、旧約の民の過ちを同じように犯すことがないようにしたいものです。そのためには過去から教訓を得て、絶えず神の愛の大きさと、自らの罪の深さを知らされること、それによって悔い改めと信仰を深めていくことです。
2021/10/10 ルカ福音書13:22~30 狭い門から
・狭い門から
「努力して狭い門から入りなさい」
主イエスは質問に答えて救われるための心がけについて語っています。「努力して」とは、運動選手たちが栄冠を得るために必死に努力する有様を示しています。
「狭い門」とは見つけにくい門、見すぼらしい門、入るのに困難な門ということです。そこで多く者は見出すことがなく、見出しても門前で疑い、躊躇して、入らずじまいの門です。しかしそれでも神の国に入るためには「狭い門から入る」ことが必要です。
・狭い門とはイエス・キリスト
主イエスは「わたしは…門」ヨハ10:7と語っています。彼のみが神の国に至るための唯一の門です。しかしながら、世の人々は無視し、捨て去る門、あるいは入ろうと思いながらも躊躇する門です。
ただ神に目が開かれた者たちのみが、それを見出し、永遠の救いに至る門と知らされました。それゆえ彼らは「努力して狭い門から入った」のです。ピリピ3:13に「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」とあるとおりです。
・ 門が閉ざされる時
「主人が…戸をしめてしまって」とあります。門はいつまでも開かれたままでなく、時が来ると完全に閉ざされます。そのときに、いくら戸を叩いても入ることはできません。
私たちはキリストによって招かれている者たちです。それが「狭い門」だからといって躊躇せず「ひたむきに」信仰を持って進んで行きましょう。
2021/10/3 ルカ福音書13:18~21 からし種とパン種
・からし種のたとえ
主イエスは神の国を2つのたとえを用いて弟子たちに示しています。それは当時の人々が考えていたように突然訪れるものではなく、漸次拡大するものとして示されています。
その1つは「それは、からし種のようなもの」とあります。からし種は小さな種ですが「それを取って庭に蒔く」ことで、その内に宿されている生命が働き「生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作る」程になるということです。ただの野菜の次元を超えて「木」になり、庭の外の「空の鳥」にとっても憩いと養いの場となるということです。
・パン種のたとえ
次に神の国は「パン種のようなもの」とたとえています。パン種もまた小さいものですが「女が…とって…粉に混ぜたところ、全体がふくれました」とあります。この場合も、はじめは何の変化も見られないのですが、時間がたつに従い、驚くほどの大きな塊になるのです。
・神の国と福音
「からし種」「パン種」でたとえられているのは、主イエスの福音と神の国の有様です。主イエスの福音もまた、世の中では小さく愚かな教えとされています。しかし、それを心から信じる人々、集団のなかでは、神の生命が働き、人間の思いを超えた次元にまで拡大していくのです。「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」Ⅰテサ2:13と。また「福音は…それをほんとうに理解したとき以来…世界中で、実を結び広がり続け」コロ1:6とあるとおりです。