・神の国を求めなさい
主イエスは地上の事柄に対する執着ではなく、まず第一に「神の国を求めなさい」と語ります。神の国は神の恵みが支配する世界のことです。その国はすでに天から下って地上に突入しており、神は主イエスの弟子たちを喜んでそこに招かれておられます。その際に、必要なことは信じて「求め続ける」姿勢です。
・天に宝を積み上げる
しかし神の国を求める信仰は、空虚なものではなく、具体的な生きた信仰として実践されていく必要があります。それが「持ち物を売って、施しをし…宝を天に積み上げる」ということです。「売って、施す」ということは、「私」にとって痛みを伴うことですが、その分、私のために天に宝が積み上がる結果となります。しかもその宝は朽ちない永遠の宝となって、神の目に留まる信仰の証となるのです。神もまた、その人を永遠の愛によって愛し、また生命を与えられます。
・宝のあるところに心
「宝のあるところに、あなたがたの心もある」とあります。つまり地に宝がある時、その心は地上に属し、天に宝がある時、その心は天の属するということです。宝がどこにあるかによって、その人の本質が顕になるのです。
かつて修道女マザー・テレサが「自分自身が痛む程に与えなさい」と語っていたということですが、彼女ほどの痛みではなくても、自分に与えられた信仰にしたがって「痛んで」天に宝を積み上げることは大切な信仰の実践です。
2021/7/25 ルカ福音書12:31~34 天に宝を積み上げる
2021/7/18 ルカ福音書12:22~30 空の烏、野のゆりを見よ
・心配
主イエスは「いのちのことで何を食べようか…何を着ようかと心配したりするのはやめなさい」と語っています。世に生きる限り、様々な生活の心配と煩いは避けることはできません。しかし、それが過度になる時に、囚われて目に見えない神の恵みから離れる危険があります。
・烏のことを考える
「烏のことを考えてみなさい」とあります。烏は不浄な鳥とされていますが、それでも「蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉も」ないのに繁栄しています。それは神の養いの中にあるからです。
自然の中に現されている恵みを考えさせてから、次に「あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたもの」とあります。小から大の論理で類推させています。
・ゆりの花のことを考える
次に野の「ゆりの花」について「栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした」と語ります。神の恵みと装いの中にあるものは、どのような人間の装いよりもすぐれていることを示しています。そしてここでも「ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう」と小と大の論理、特別な恵みを洞察する霊的類推に招いています。
私たちは圧倒的な異邦人の中にあり、同じように心配の虜になりがちです。そのような時に、自然の恵みに目を留め、次に神の遥かに大きな恵みに心を向けることが大切です。
2021/7/11 ルカ福音書12:13~21 愚かな金持ちのたとえ話
・どんな貪欲にも注意
主イエスは遺産相続分配の訴えがあったことを契機に、弟子たちに対して「どんな貪欲にも注意」するように警告を与えています。それは主イエスがもたらした神の国も永遠のいのちも地上の財産によるものではなく、むしろそれらが害になる場合が多いからです。
・愚かな金持ちのたとえ話
そこで主イエスは愚かな金持ちのたとえ話をします。彼はすでに財産があるのに、貪欲にとらわれて、さらる財産が自分のたましいの喜びと保証となるかのように錯覚したのです。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」とは、貪欲にとらわれた者の愚かな夢想です。
ちょうどその夢想の頂点の時に神宣告は以下のとおり下ります。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」
・神の前に富まない者の悲惨
金持ちは自分が知恵者で思慮深い人間であると考えていたのに対して、神は「愚か者」と宣告しています。この金持ちの愚かであるゆえんは、目先の財産にとらわれ、目に見えない神とその主権を見失ったところにあります。その結果、この世と後の世のいのちまでも、すべて失ったのです。最後に「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです」とあります。
2021/7/4 ルカ福音書12:8~12 イエスを告白する
・イエスを告白する
主イエスは「わたしを人の前で認める」ことの大切さを示しています。それは洗礼式のときだけではなく、生涯にわたることです。そして、地上の告白が、即、最後の審判に反映されるのです。「人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます」とあるとおりです。
・イエスを否認
反対に、自分ではイエスの弟子との自覚があっても、イエスを人の前で否認した場合も、即、最後の審判に反映され、その人が否認されることになります。
しかし何度かイエスを否認したとしても、心から放棄して聖霊を汚すのでない限り、悔い改めによって、立ち返ることが赦されます。
・聖霊による告白
また弟子たちが、困難な中でも信仰告白をしようとする時に、「聖霊が教えてくださる」とあります。聖霊はイエスの霊、約束の霊で、前向きにイエスを告白しようとする弟子たちにともなうのです。その聖霊による教えと告白を通して、世に対して鮮明な証をなし、同時に弟子たちも成長することになります。
・信仰告白…「神のもとにいたる道」
ナチスの時代に告白教会を設立したボンヘッファーはこの世は「通り過ぎるもの」ではなく「神のもとにいたる道」であると語っています。つまり私たちは困難があったとしても、明確な信仰告白をなすことで、御国に凱旋することができるということです。
2021/6/27 ルカ福音書12:4~7 人間ではなく 神を恐れる
・人間たちを恐れるな
主イエスは弟子たちを「友」と呼び、主イエスの宣教の後継者、新しい民の形成者として、信仰生活の基本を示しています。その第1は、「人間たちを恐れてはいけません」です。実際に人間たちは「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない」存在だからです。また人間を恐れると罠にかかり、神に対する反逆と様々な罪の原因となります。
・神を恐れる
「殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい」とあります。神のことですが、神は第1に地上の生殺与奪の権を持ち、さらに死後に第二の死、永遠の滅びであるゲヘナに投げ込む権も同時に持つ方であることを示しています。だから人間を恐れずに、神こそ恐れるべき方であることを教えています。
・憐れみと愛の神
また雀の例を通して、神が憐れみと愛の存在者であることを示しています。「五羽の雀は二アサリオン」とは、雀一羽が、この世では極めて小さな存在であることを示しますが「…神の御前には忘れられてはいません」と。「あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者」と語っています。
私たちは人間を恐れて、信仰生活を台無しにしがちな存在です。そこで、私たちは主イエスの言葉を通して、霊の世界に目を開き、神を恐れ、また神のあわれみと愛の中に生きるという信仰の基本を徹底させていきましょう。