・シモンの家で
パリサイ人シモンが主イエスを食事に招いたときに「ひとりの罪深い女」が入ってきたことが記されています。彼女は「香油の入った石膏の壺を持ってきて、泣きながら、イエスの後ろで御足のそばに立ち、涙で御足を濡らし始め、髪の毛でぬぐい、御足にくちづけして、香料を塗った。」とあります。
・パリサイ人シモンと罪深い女
パリサイ人は、この女性に起こった霊的変化を理解できず、つぶやきました。そこで主イエスは金貸しと二人の債務者の例えを語っているのですが、それはパリサイ人と罪深い女とを対比する例話でした。「よけい赦された方が、よけい金貸しを愛する」というのが、そのポイントでした。
ちょどそのように、パリサイ人シモンはイエスを食事に招きましたが、その心に愛は欠けていました。それに対して女はイエスを愛してやまなかったのです。それが香油で洗足するという行為に現れていたのでした。
・赦しと愛
「この女の多くの罪は赦されています。というのは彼女はよけいに愛したからです、しかし少ししか赦されないものは、少ししか愛しません」 とあります。自分の罪を深く認識し、主イエスによる赦しと愛を覚えた女は、よけいイエスを愛しました。しかしパリサイ人シモンは自分の罪を知らず、赦されてもいなかったので、愛はなかったのです。
2020/11/25 ルカ福音書7:36~50 パリサイ人シモンと罪深い女
2020/10/18 ルカ福音書7:24~35「風に揺れる葦」ではなく
・「風に揺れる葦」ではなく
主イエスは群衆に対して、わざわざ「荒野に出て行った」のは、どうしてだったのかと問い、あらためてバプテスマのヨハネの存在意味を確認しています。彼らは無意味な「風に揺れる葦」でも、この世の栄華を見に行ったのでもないこと。いや、それ以上の価値、世の次元を超えた存在を見に行ったことを想起させております。
・預言者と神の国
イスラエルの歴史の中で、預言者たちは特異で顕著な存在で、みなキリストと神の国を指し示し、預言しました。主イエスは、ヨハネを預言者中最大の預言者としています。それは彼が最もに明瞭にキリストと神の国を預言し指し示したからです。
しかしここで、主イエスは「神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています」と宣言します。それはイエスをキリストと信じて、その永遠の生命を受け、神の国を相続する者だからです。
・神の国を証しする
ユダヤ人たちは「市場で遊んでいる子どもたち」のように空虚で、自分勝手な物言いをし、決して、神から遣わされたヨハネもキリストも受け入れようとしなかったのです。その態度は、私たちの社会もまったく同様です。
しかし、キリストによって神の国に入れられた私たちは、イエスこそキリストであり、彼によって神の国は成就したことを、喜びと感謝と力を持って証しするのです。
2020/10/11 ルカ福音書7:18~23 つまずかない者は幸い
・ヨハネのつまずき
バプテスマのヨハネは、ヘロデ王によって捉えられて危機的状況にありました。その時、弟子たちを遣わして「おいでになるはずの方は、あなたですか」とイエスが神の子キリストであるかどうかと問うています。ヨハネは、罪悪人に対して厳しい裁きを下すことがないイエスに、つまずきを覚えていたのです。
・目で見、耳で聞くこと
それに対して主イエスは次のように答えます。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい…」。イエスは丁寧に、自分がキリストであることを説明することはしません。自分たちで主体的に自分の目で見ること、自分の耳で聞くようにと語っております。さらに預言に照らし合わせて知るようにと指示します。「盲人が見えるようになり、足なえが歩き…」とはイザヤ書のキリスト預言です。
・つまずかない者は幸い
「わたしにつまずかない者は幸い」とあります。人は、世の様々な偏見と先入観の枠に捉えられて、そのままではイエスにつまずきます。そのつまずきを乗り越える人は、神がその人を促して、イエスについて「自分の目でよく見、耳でよく聞いた」からです。
パスカルのことばまさに至言です。「神は心の底から神を求める人々にはあからさまに現れ、心の底から神を避ける人々には隠れたままでいようと欲した。」
2020/10/4 ルカ福音書7:11~17 ナインの母
・ナインの母
主イエスがナインという田舎町に行ったとき、ちょうど「やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところ」でした。町の人々は、その母親に深く同情し、葬列は深い絶望と悲しみに覆われていました。
・息子の復活
「主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい」と言われた」とあります。深い同情心は主イエスの特徴ですが、それだけではなく、死の絶望と悲しみからの解決手段を持つ方です。
主イエスは死も汚れも決して恐れることなく棺に手をかけて「青年よ。あなたに言う、起きなさい」と言われました。すると「その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された」とあります。深い同情と共に復活だけが、母親を元のとおりに回復させる手段でした。主イエスは、完全な解決を与えたのです。
・「死は勝利にのまれた」
死の絶望と悲惨は、古今東西どこの国でも深刻です。その問題は、人間の力や同情では決して解決することがなく、ただ主イエス・キリストとその復活の言葉によるのです。
「死は勝利にのまれた」(1コリント15:54)というみ言葉がありますが、このことは、単に2000年前のナインだけではなく、私たちの町でも福音宣教により起こることです。
2020/9/27 詩篇84:5~7 シオンへの大路
・シオンへの大路
「その心の中にシオンへの大路のある人」とは、旧約の巡礼者たちのことを指しております。彼らは遠い地方からエルサレムの神殿に登っていくのですが、その巡礼の姿とともに、心の信仰にも「シオンへの大路」が刻まれていました。それは神を慕い、礼拝しようとする志です。
・神の御前に現れる
巡礼者は険しい道、危険な道を通り、暑さと渇きという試練がつきまといます。それが「涙の谷」です。しかし神の愛に守られているので、どのような試練も「泉の湧くところ」=幸いとされます。
彼らは「力から力へと」気高さを持って旅を続けることができ。ついにエルサレム神殿において「神の御前」に至るのです。
・召天者と私たち
召天者たちもまた、現代の「心にシオンへの大路がある」人々でした。地上の生活の中で神を愛する心を持ち、具体的には神を礼拝しました。地上で様々な試練を体験しましたが、それも神によって益とされる体験をしました。さらに今は、天国で神の御前に現れ、血肉の体ではなく霊の体で、純粋な礼拝者とされています。
私たちもまた、地上の生涯を全うして「神の御前に至った」召天者を覚えながら、自分自身の心のなかに「シオンへの心の大路」をしっかりと刻みましょう。