2017/7/23 エレミヤ1:13~19 「煮え立った釜」の幻



・「煮え立った釜」の幻
 エレミヤに示された第2の幻は「煮え立っているかま」でした。それは「北の方からこちらに傾いて」いました。この幻は不穏であり、物々しさを感じさせるものでした。
 神は、その具体的な出来事を次のように示されます。「わざわいが、北からこの地の全住民の上に、降りかかる。」「北から」とは、やがて勃興する新バビロニアを指します。彼らはエルサレムとユダのすべての町を攻撃し、ついには支配することになります。

・民の悪と神の裁き
わたしは、彼らのすべての悪にさばきを下す」とは、この幻の霊的意味です。当時の南ユダはカナン入植から約1000年の年月が過ぎていましたが、その間に際立ってきたものは主なる神からの離反と偶像崇拝への傾倒でした。さらには偶像崇拝に伴うすべての悪もはびこるようになりました。主は恵みと忍耐の神ですが、甚だしい悪に対しては、見逃すことなく、その悪を怒り、必ず裁きを下す方なのです。

・「彼らの顔におびえるな」
 神のことばは、人間の悪を暴き、また神の裁きの宣告なので、人々の思いと感情を逆なでします。ゆえに預言者エレミヤの働きは、しばしば、人々の拒絶にあい、反発を食らうことになります。
 そこで神は「腰に帯を締め」としっかりと語るように促し、また「彼らの顔におびえるな」と激励します。たとい人間の反対があったとしても、預言者は神のことばをそのまま語り、従うことで、生される存在なのです。それは私たちキリスト者も同じです。

2017/7/13 エレミヤ1:11~12 アーモンドの枝



・「あなたは何を見ているのか」
 神はエレミヤを試して語りかけます。「あなたは何を見ているのか」と。預言は人間的な惑わしから解放されて、ただ神に心と思いを向けることを必要とされてます。そこでこの問いは、エレミヤが神の預言者としてふさわしかどうかの試験ということになります。

・「アーモンドの枝」
 エレミヤは「アーモンドの枝を見ています」と答えます。この幻は、民数記17:8の記事を想起させます。神がアロンの杖にアーモンドの花を咲かせ実を結ばせたという奇跡です。それでアロンは神が任命した大祭司と明らかにされたのです。エレミヤに「アーモンドの枝」が示されたのも、神がエレミヤと共にあり真の預言者であることを証ししたのです。
・「見張っている」
 「アーモンドの枝」が示されたのには、もう一つの理由があります。それは「わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っている」ということです。「アーモンド」ヘブル語で「シャケデ」といい「見張っている」という意味にもなります。神は言葉遊びを用いて、エレミヤに神のことばは必ず実現することを確信させたのです。そして、この「アーモンドの枝」の幻は、エレミヤの生涯にわたって彼の預言者活動を支えた重要な幻となったのです。
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問1; エレミヤにとって「アーモンドの枝」の幻は、どのような意味がありましたか。
問2; 「みことばを…見張っている」ことは、あなたの信仰生活にとってどのような励ましとなりますか。

2017/7/9 エレミヤ1:1~10 エレミヤの召命 



・エレミヤ
 エレミヤはBC627年からBC580年頃に活動した預言者です。彼はアナトテの祭司の家系出身です。彼は滅亡期にあった南ユダにおいて王と人々の罪を徹底して断罪しました。彼はしばしば「涙の預言者」と呼ばれますが、しかし、未来における神の民の再生を預言したという点で「希望の預言者」と言うこともできます。

・預言者としての召命
 預言者はすでに申命記18:18において、その出現が予知されていた人々です。神はモーセに対して「あなたようなひとりの預言者を起こそう」と語っております。エレミヤの召命は厳かなものでした。神はエレミヤに対して「…あなたを知り」「…あなたを聖別し」「あなたを預言者と定めてと語ります。神がみ言葉のために用いる器を特別な選びと定めの中に置いていたと言うことです。

・エレミヤの応答と神の主権
 神の召命に対してエレミヤは、拒絶します。しかしながら、預言は人間によるのではなく、神の主権のもとでなされることを示します。また同時に神の愛を示し、神がともにおり、どのような危機からも救うことを約束します。

 私たちはエレミヤをはじめとした預言者の時代から遠く離れた時代に生きていますが、彼らのことばは神のことばとして、現代に向けて語られているのです。

2017/7/2 ピリピ4:14~23 コイノニアと教会



コイノニアと教会
 パウロはピリピ教会について「私と困難を分け合って と語っています。「分け合って」とはコイノニアで、パウロがこの手紙で良く用いている言葉です。これまでも恵みにあずかった人々」1:7、「御霊の交わり2:1、「キリストの苦しみにあずかる(コイノニア)3:10キリストの血にあずかる などがあります。このようにしてパウロは、教会の交わりは特別な霊的な交わりであることを示しております。

・物をやり取りする教会
 さらに「物をやり取りしてくれた教会」と語ります。それはピリピ教会がパウロの元に金銭を送ってくれたことを示しています。これもコイノニアという言葉が用いられており、物や金銭も歴とした霊的な交わりであることを現しています。それはパウロたちの欠乏を補うことになったのですが、それ以上に双方に霊的恵みをもたらしたことを指摘します。

・神への供え物
 さらに「神が喜んで受けてくださる供え物 」とあります。旧約の時代には神殿があり、そこでいけにえをして贖いをなし、さらに神との交わりの場としました。しかし新約時代はキリストのゆえにいけにえは必要ありません。しかし神との交わりのために自発的に献金するという形で「神に喜ばれ」、神との交わりを深める機会が提供されているのです。