・放蕩息子のたとえ
ルカ15章に放蕩息子のたとえがあ記されています。次男が父から財産をもらって遠くに出かけますが、放蕩三昧の末、没落します。それで父の元に立ち返るのですが、父は愛を持って歓待するという話です。
このたとえ話で、父は二つの側面を持っていたことに気がつきます。一つは厳格な父、もう一つは愛の父です。どうしても父には子どもをしつける厳しさが伴います。しかし子どもと心から出会うのは、内にある愛が前面に出たときなのです。
・父とわたし
私の父は戦前派ですから、厳しさがありました。特に、私が思春期のときにはそう感じました。そして、厳しさは父と子の関係を疎遠にします。父と私の関係も、思春期以来、どこか距離を感じるものとなっていました。
しかし、父が末期癌となったときから、異なった関係ができました。父が優しさを前面に出すようになり、若い時にキリスト教に関心があったこと、またキリストを「信じているよ」とまで告白してくれました。それらは私の心の癒やしとなりました。
・愛の父への召命
私の体験は、また多くの人々の体験です。父と子が愛の出会いをすることによって、互いが癒されるのです。ナウエンという神父は、放蕩息子の帰還という本を書いていますが、そこで次のように書いています。「人は放蕩息子のような体験をするが、その後に愛の父となる召命を受けている」と。