2013/7/28 ヨハネ3:1~3 新しく生まれる

・ニコデモと夜
  ニコデモはパリサイ人として律法と伝承によって行いを積み重ねて、神の国に入ることができると考えていました。しかし老年になっても、神の国に近くなっているとは思えませんでした。昼は指導者然としていましたが、夜は迷える羊でした。

 ・イエスと神の国
  彼は、主イエスの様々なしるしを見て、イエスが「神のもとから来た教師」と思いました。そこで、イエスのもとを尋ねたのです。
 彼が求めていた神の国とは、旧約ダニエル書などで預言されていることで、神が支配する国のことです。この世に到来し、しかも後の世にまで続く国です。人がその国に入れられるならば、幸いを得、また永遠の生命を持つのです。

 ・新しく生まれる
  主イエスは彼に対して明瞭に語られます。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」  神の国には人間の努力を積み重ねても入ることはできず、神の生命を受けて生まれ変わるのでなければ不可能なのです。地上の生命は地上の生命で終わり、天の生命だけが神の国の恵みと祝福に預かるのです。

 ・信仰による
  神の国は、キリストの到来とともにすべての人に提供されていMS雨。そして神の国に入る手段はすべての業と誇りを捨てて、ただキリストを信じる信仰だけです。

2013/7/14 ヨハネ福音書2:23~25 人の内にあるもの

・お任せにならなかった
  過越の祭りの間、主イエスはしるしを現したので、多くの人々が信じました。しかし、主イエスは「ご自身を彼らにお任せにならなかった」とあります。彼らは目に見える奇跡を信じただけで御利益信仰に留まっていたからです。

 ・人の内にあるもの
  また「イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので」とあります。「人のうちにあるもの」とは、罪であり、ついには敵対するまでになる悪です。
  確かに十字架直前に、人々の内にあるものが噴出して、ユダの裏切り、ペテロの否認、弟子たちの見捨てる姿となってあられます。

 ・人の内にあるもののため
  主イエスは「人のうちにあるもの」が顕わになり、弟子たちがそれを自覚するために、十字架の死を忍ばれました。
  十字架の死は、同時に「肉において罪を処罰された」出来事でした。一人の人アダムを通して罪がはいったように、一人の人キリストによって罪が処罰されたのです。そこで自らの罪を知って、キリストを信じる者は、誰でも救われるのです。

2013/7/7 宮きよめ ヨハネ2:13~22

・宮きよめ
  主イエスは宮の中に「牛や羊や鳩を売る者たちと両替人」がいるのを見て「細なわでむちを作って」宮から追い出しました。そこは異邦人の庭で祈りの場であり、それが妨げられていたと言うことと、さらにはマラキ3:1の預言の成就としてキリスト到来のしるしでした。

  ・「父の家」のための熱心
  「わたしの父の家」とは礼拝の場です。そこで神はご自分を現し、民と交わるのです。神は礼拝を切望していますし、御子キリストもまた、「商売の家としてはならない」ことを熱心に示し、保とうとされたのです。しかし、ユダヤ人は主イエスの変革を拒み、憎み、やがて十字架刑にして捨て去ります。

 ・新しい神殿
 「わたしは、三日でそれを建てよう。」  それ故、主イエスは古い神殿を廃棄し、十字架の死の三日後、復活によって新しい神殿を創設されました。それはまた、キリスト信仰者からなる教会のことです。そこで父の神は教会に臨在し、信者と交わり、ご自分の栄光を現します。

 ・教会と礼拝
  私たちの国で、多くの宗教は実質において商売の家です。また礼拝対象は死霊です。そこには聖さも、生命も存在しません。そうした社会において、私たちがキリストの熱き霊を持って、神に礼拝を捧げることは、正しく神の光を現すことです。

2013/6/30 カナの婚礼から ヨハネ2:1~11

・「わたしの時はまだ」
  主イエスが、カナでの婚礼に出席した時、ぶどう酒が欠乏しました。そこで、母マリヤは主イエスに対して欠乏を告げて、求めました。
  ところが主イエスは「わたしの時はまだ来ていません」と一蹴しました。しかし、拒絶したのではなく神の御業は人間的な思いや願いで起こるのではなく、ただ「神の時」だけに起こることを知らせたのです。

 ・「イエスの時」を待つ
  マリヤはイエスの言葉通り「その時」を待ちました。手伝いの人々にもその旨を伝えています。また手伝いの人々は「水がめに水を満たしなさい」と促されたときに、それを徒労とも考えずに、つぶやくことなく、その言葉通りにしています。

 ・「さあ、今くみなさい」
  その時が到来し、主イエスは「さ あ、今くみなさい」と告げます。手伝い人はその言葉に従って水を汲んで宴会の世話役に持って行きました。その時、水はぶどう酒に変化しており、しかも極上のぶどう酒になっていました。そこで彼は花婿に「…あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました」と賛辞を添えたのです。

 ・「カナの婚礼」から
  カナの婚礼から私たちは欠乏の時の対処法について学ぶことができます。生活の欠乏、力と意欲の欠乏の根源は、私たちの生命が血肉の生命であることによります。その時には、「イエスの時」を待ち望んで備えるが肝要です。信じ待ち望む者には、「イエスの時」は確実に訪れ、私たちとその生活を新しい生命と恵みとで満たすのです。