2019/10/20 コロサイ1:1~4 祈りと愛


・あいさつ
 コロサイの町は現在のトルコ内陸にありました。交通の要所として商工業が栄えていました。そこに福音が伝えられたのはパウロのエペソ伝道の頃と思われます、パウロ自身は直接、訪ねたことはありませんでした。
 しかしパウロは、手紙において使徒としての立場を明瞭にしています。それは教会が使徒的福音のもとにしっかりと立つことを願っていたからです。彼らもまた福音によって「聖徒たち」とされ、新しい時代の神の民として整えられなければならなかったのです。

・祈りと愛
 パウロはコロサイ教会を見てはいませんでしたが、愛していました。その愛は具体的には、まず祈りという形で示されていました。「いつもあなた方のために祈り…感謝している」とある通りです。「聖徒たち」の成長は、単に福音を蒔いただけではなされず、多くの祈りによるのです。

・信仰と愛のため
 パウロが「聖徒たち」のために祈り感謝していた内容は、彼らのうちに福音によって信仰が深まり愛が増し加わることでした。「信仰から信仰に進ませる」とありますが、信仰は成長していくものです。また愛とは仲間内の人間的な愛ではなく、多くの聖徒たちをも愛する神の愛アガペーです。
 私たちの教会の場合も、キリストの福音によって信仰と愛が育っていますが、さらに愛の祈りによって成長していくことを願うのです。

2019/10/13 出エジプト40章 ご臨在と栄光の場


・幕屋と主の栄光
 シナイ山のふもとで、神様はモーセに幕屋を作ることを命じられました。それは移動式神殿であり、そこを神の臨在の場所とするためでした。シナイ山に下った神が、今度は、そのようにして民の只中に臨在されたことになります。旧約の民にとって、そこが礼拝の場所でした。

・主の栄光
 すべて、主なる神の命令通りに幕屋を完成させたとき「雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた」とあります。「雲」は、神の臨在の証として目に見える形で現れたのです。「満ちた」とは、しっかりと神がそこに宿り、神のご性質である聖さ、力、恵みが、現れ出たことを示す描写です。
 このように神が民の中に臨在することで、民は荒野の40年を安全に宿営し、また行進することができたのです。ソロモンによるエルサレム神殿建設は、これを引き継いだものです。

・さらなるご臨在と栄光の場
 しかしながら、旧約幕屋は、初めから仮の神殿で模型です。本体は、キリストによってもたらされました。さらには、キリスト信仰者の集団である教会が、真の神殿とされています。「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ」エペソ1:23とあるとおりです。それを肉の目ではなく、信仰の目で知り、キリスト教会をたて上げていく必要があります。

2019/10/6 出エジプト記35:4~19 心から進んで


・幕屋と奉納物
 シナイ山のふもとで、モーセは神臨在と礼拝の場所である幕屋を作ります。その材料は、どれも高価で貴重なものでした。「金、銀、青銅」青色、紫色、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材 」とあります。幕屋はテント式神殿でしたから、それにふさわしい品々がひつようとされました。またこれらの奉納物は「あなた方は」とあるように、神の民自身が捧げるものでなければなりませんでした。

・心から進んで
 さらに奉納物について「すべて、心から進んでささげる者」とあります。聖霊に動かされて献身する姿であり、自分から進んでなそうとする自発心が見られます。神の幕屋は、いつの場合でも、心からの献身と奉納物によって建てられるのです。他に「心に知恵のある者」「感動した者」ということばがあります。この人たちも聖霊によって知恵と感動と志を与えられた人々です。

・現代の教会
 この出エジプト記の幕屋建設の姿勢は、それ以降の旧約の民、また現代の教会にも通じるものです。私たちの教会には、会堂があり、そこで礼拝をはじめとして様々な活動がなされています。これは聖霊が導いてくださったものですが、なお、聖霊の導きと祝福をいただくためには、奉仕と捧げものにおいて「心から進んで」という志と献身が必要です。

2019・9・27 召天者記念礼拝 多くの証人に囲まれて へブル12:1


・多くの証人たち
 旧新約の信仰者たちは、みな私たちの信仰の証人たちです。信仰とは、天の故郷の存在を証しする証人と言うことです。また私たちの教会の召天者たちも、より身近に私たちにたいして天の故郷の存在を証しする証人たちです。

・雲のように
 「雲のように私たちを取り巻いて」とありますが、私たちの召天者も、いつの間にか多くなり、まさしく「雲のように」私たちを取り巻いている状態です。雲は、神の臨在を示しますが、召天者たちを覚えることは、神の臨在と約束の確かさを確認する機会となります。

・重荷と罪を捨てて
 私たちの召天者たちは、私たちが確実に、天に凱旋するための応援団のようであることを示します。そのために、私たちに必要なことは「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨て」ということです。世の重荷と罪は、私たちの妨げとなるだけで、何の益もありません。

・忍耐を持って
 また「競走を忍耐をもって走り続けよう」とあります。私たちの信仰の歩みは、さながら運動競技のようです。 絶えず前向きになり、前進していくことだからです。それは一瞬のことではなく、生涯に渡って持続させることなので、「忍耐」が必要とされるのです。そして諦めないで「忍耐」し続けさえすれば、みな勝利者となるのです。

2019/9/22 敬老の招待礼拝 信仰による歩み ヘブル11:1~6


・「信仰がなくては」
 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」とあります。信仰とは目に見えないものを認める手段であり、同時に心の真実さです。神様は、信仰によって、ご自身の存在を認め、信仰によって、ご自身が報いてくださる神であるとして、近づく者をよろこんでくださるのです。それは若い時でも、年老いてからも、同じく、神に喜ばれる心であり、生きる姿勢です。

・信仰による歩み
 ヘブル人11章では7節以降に旧約聖書に出てくる神に喜ばれた人々を紹介しています。彼らの共通点は、神とその約束を信じ切って歩んだということでした。それは新約時代と今の時代でも同じです。私たちの多くの先輩たちは、信仰による鮮明な足跡を残しています。それは若い時だけではなく、年老いてなお、弱ることがない信仰でした。

・さらなる信仰
 信仰による歩みは、地上のことだけではありませんでした。「さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていた 」とあります。私が若いときに出会った老婦人も、そのような信仰を持った1人でした。彼女は神学生の私のところに近づいてきて、一言、証ししてくれました。「主よ、はしためのときはいつですか」と私は、いつも神様にお祈りしているのですよ。」と。不思議に、その見知らぬ婦人の言葉は、私の心に刻まれて、いまでも明瞭に思い起こすことができるのです。

2019/9/15 出エジプト32:1~14 金の子牛事件


・金の子牛事件
 モーセが山に登ってから約40日が経った時に、民は不安にかられ、アロンに偶像を造るように求めました。アロンが金の子牛を造ったときに、人々はそれを主なる神として生贄を献げて祭りを始めました。「民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた」とは偶像崇拝につきものの遊興と放縦の有様です。

・神の怒りとモーセの執り成し
 神は民の有様を見て「うなじのこわい民」頑固で不従順なと断じ、怒りを燃やしました。さらに「絶ち滅ぼす」とまで語りました。これに対してもモーセは必死になだめ、とりなしの祈りをしました。それはくり返し忍耐深くなされた結果、神はようやく怒りをなだめられました。しかし悔い改めることなくかたくなさを続ける者たちは、滅ぼされました。

・神を恐れる心と祈り
 この旧約の出来事は、新約に生きる私たちに教訓として語り継がれています。私たちの場合も、偶像崇拝や世をむさぼるような生活をするときに、滅ぼされるのは同じです。神を恐れて、それらを避けなければなりません。さらにモーセにならって互いのために、執り成しの祈りをする必要があります。世の力は強く、誰でもその虜になる危険をはらんでいるからです。
 ある人々は、必死の祈りと執り成しの力で、罪に陥っていた友や伴侶また家族を救い出したのです。
 

2019/9/8 出エジプト28章 アロンの胸当て


・大祭司職
 モーセは神によって幕屋建設を示され、さらにそこで仕える大祭司職にアロンを任命するように命令を受けました。幕屋の材料はすべて天の栄光を現すようなものでした。それは幕屋に神が臨在されることの象徴でした。大祭司も神と民の仲介者として仕える働きのため、その装束は幕屋と同じ天の栄光を現す材料が用いられました。

・アロンの胸当て
 大祭司は贖いと執り成しの職務を持ちました。執り成しの職務を象徴するものはエポデとそれに取り付ける肩当てと胸当てでした。特に胸当てには4列にイスラエル12部族を宝石が貼り付けられていました。アロンは12部族のすべてを等しく「胸の上に載せ、絶えず主の前の記念」としました。

・真の大祭司キリスト
 この大祭司アロンの職務は、キリストのひな形です。その職務は、旧約の時代に目に見える形で示され、新約の時代に霊として成就しました。キリストこそが真の贖いであり、彼は天の幕屋仕えて、直接に父の神の前に私たちのために執り成しをしておられます。
 「わたしの目にはあなたがは高価で尊い」(イザヤ43:4)とありますが、それは現代の民である私たちひとりひとりのことです。ヘブル人の手紙に「大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」4:16 と勧められています。私たちは、どのような時にも、よりすぐれた霊の幕屋、天の幕屋に進み行く幸いを享受するようにしましょう。

2019/9/1 出エジプト記20:15~17


・盗んでは…偽ってはならない
 第八戒は「盗んではならない」です。神は、人と共にその所有権もを尊び、また私たちの見境ない欲望と邪悪を嫌う方です。
 第九戒「偽ってはならない」とは、法廷などでの偽証だけではなく、社会生活における偽りを禁じています。神は正義で真実な方であるので、偽りの不正で正義が曲げられたり、人が真実から離れて悪魔の手下になることを嫌われるのです。

・欲しがってはならない
 第十戒は「欲しがってはならない」です。「欲しがる」とは、執拗に他人のものを求める心です。「むさぼり」とも言います。この戒めは、心の悪を禁じる戒めですが、心の悪を戒めるのは、この戒めにっよって他の場合も同様であることが、明らかにされています。
 主イエスは十戒の本質について「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」が基本と語っておられますが、この戒めによって、そのことが明瞭にされています。

・原罪
 十戒の目的の1つは、確かに人の行動と思いの規範を示すものですが、さらに人の心の奥に潜む原罪を暴くことにあります。ローマ7章でパウロはそのメカニズムについて詳しく述べています。それを真摯に守ろうとするときに、自分の罪が顕わになり「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と叫ばずにいられないのです。結局、十戒はキリストの救いを指し示すのです。

2019/8/18 出エジプト20:12~14 十戒…隣人に対して


・父と母を敬え
 第5戒は「あなたの父と母を敬え」です。「敬う」というのは面従腹背ではなく、心から尊敬して従うということです。神は、ご自身の代理のように親を立てて、子どもを養い育て、教育するようにされたからです。
 またこれには約束が伴い、「あなたの齢が長くなるため」とあります。神は親を敬う者を覚えておられ、それを喜ぶと言うことだけではなく、人生の祝福としてくださるのです。

・殺しては…姦淫してはならない
 「殺してはならない」とあります。人間は、神のかたちに似せて創造された尊い存在です。それを殺すことは、何よりも厳しく禁じられています。また行為としての殺人だけではなく、怒りや憎しみの思いをも禁じています。
 「姦淫してはならない」とあります。神は結婚関係を聖別しておられるので、それを引き裂く行為を固く禁じます。同時に、みだらな思いで異性を見ることも禁じます。性的関係は、時代によって変遷しているように錯覚されていますが、神の戒めは不変です。

・悔い改めと新しい心
 十戒の目的は道徳の規範を示すと共に、人間の原罪を顕わにする役割があります。行為はともかく、内面に向けられた戒めを完全に守れる者はおりません。だれでも心の奥に潜む原罪が顕わになるのです。そしてキリストを待望させるのも十戒の役割です。

2019/8/11 出エジプト20:8~11 十戒…安息日について


・安息日
 第四戒は「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」。安息とは休むということです。その理由として、主なる神が天地創造の最後の日に休まれたことを上げています。神の民が、神の安息日につらなることを意味します。それゆえに、安息日は単なる休みではなく聖なる日と定められました。

・安息日の目的
 その他に、安息日の具体的目的は、人間から動物にいたるまでからだと精神を休めるということでした。人間の場合、労働はアダムの罪の呪いという意味があり、そこから解放されることは、罪と呪いからの救いという意味もありました。
 さらに安息日は、主なる神について知り、恐れることを学び、犠牲や礼拝、交わりのための宗教的目的に用いられた日でした。

・本体はキリスト
 しかし旧約の安息日は影であったため、キリスト到来後、廃棄されました。そして真の安息が彼自身にあり、天の御国で実現することが明らかにされました。「かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか(ヘブル10:25)と礼拝に集いつつ、御国到来に備えていくように勧められています。
 初代教会以来、礼拝の日はイエスの復活の日、すなわち主の日とされてきました。今の時代に生きる私たちも主日礼拝を重んじて、キリストによる真実の安息の落伍者にならないように励まし合いましょう。