2019/4/21 ヨハネ福音書20:1~18 復活の朝


・復活の朝
 マグダラのマリヤが早朝、墓に行ったとき「墓から石が取りのけられているの見」ました。それを聞いた、ペテロとヨハネも墓がからであることを確認しました。しかし誰も、イエスが復活した事実には気がつきませんでした。それは聖書を通して、「イエスが死人の中からよみがえらなければならない」という真理を理解しなければ生じない信仰でした。

・「マリヤ」と「ラボニ」
 マリヤは墓からイエスの体が消えたことで、たいへん深い悲しみに陥っていました。その悲しみから解放するために、まず御使いが、次に主イエスご自身が「なぜ泣いているの…」と問いかけます。感情の深みから認識に心を向かわせ、内側から復活信仰を呼び覚ますためでした。
 主イエスは、さらに「マリヤ」との呼びかけ彼女を明確な信仰へと導きます。彼女は「ラボニ」と応答しますが、すでに新しい関係が始まっています。

・新しい関係への転換
 マリヤは感覚的身体的性向の女性でしたから、主イエスにすがりつこうとしますが、主イエスは「…いけない」と制止します。新しい関係は、感覚的身体的な献身ではないからです。さらに主イエスは「わたしの兄弟たちのところにいって」主イエスが復活して父のもとに上ると「告げなさい」と命令します。それは主イエスの勝利宣言です。復活後の関係は、救いと勝利の言葉と信仰による関係に転換したことを示しています。

2019/4/14 ヨハネ福音書19:1~16 この人を見よ


・この人を見よ
 ローマ総督ピラトのもとでイエスは尋問を受けますが、彼はイエスに何の罪も見つけることができませんでした。そこでユダヤ人を懐柔するためにイエスをむち打ち、兵士らに愚弄させ、イバラの冠と紫の衣を着せてユダヤ人たちの前に引き出します。「さあ、この人です」と道化姿で引き出したのです。

・「この人」を捨てる
 その時、イエスに対するユダヤ人たちの憎しみと殺意は激しく、憐れみの情どころか「十字架につけろ、十字架につけろ」との叫びが響き渡るだけでした。十字架刑とはローマでは極刑であり、ユダヤ律法では神に呪われた者の刑でした。「木にかけられた者は呪われた者」とあるとおりです。彼らはイエスの生命だけではなく、名も影響も根絶しようと考えたのです。それでもピラトがイエスを助けようとした時に、彼らはカイザルだけが自分たちの王であるとして、完全にイエスを捨て去りました。ヨハネ1:11にある通りです。

「この人」 と救い
 聖書は世を愛し、自分を義とする者は、神に敵対してついには神殺しをなすことを「この人」を通して暴き出しています。
 私たちの内にも、この世を愛し、自分を義とする心が宿っていますが、それが如何に罪深いか自省する必要があります。そして自分の罪に気がつく者のみが、「この人」こそ、神の子キリストとして受け容れることができ、そこに宿された救いと永遠の生命を獲得できるのです。

2019/4/7 使徒の働き27:1~44 嵐の中の光


・ローマへの船旅
 パウロはローマに赴くことになりましたが、一難去ってまた一難となります。彼はローマ親衛隊によって護送され、船旅をすることになりました。しかし、10月に入った頃で、船旅は危険な季節になっていました。そこでクレタ島のある港にたどり着いたときに、パウロは経験と預言によって、百人隊長に生命の危険が伴うになることを忠告します。しかし、隊長は航海士と船長のほうを信用して西方50キロの港に行く決定をします。主観が客観を排除したのです。

・嵐と絶望
 船旅は、さい先がいいように思われましたが、パウロの予告通りにユーラクロンという強い北東が吹き荒れ始めました。当時の帆船は、強風には為す術もなく吹き流される状態になりました。人々は目先の状況から「最後の望みも絶たれた」状況に陥りました。ここでも目先の現象によってどこまでも暗やみと絶望に陥る人の姿を見ることができます。

・嵐の中の光
 パウロは目先の現象ではなく、神の啓示によって生きる人間でした。この時にも御使いによる啓示により「あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません」と人々を励まします。この時には、人々はパウロの言葉に光を見いだすしかありませんでした。そして数日が過ぎたときに、島影を見つけて全員の生命が救われることになりました。
 キリスト者はみ言葉によって生きることで、今の時代にも嵐の中の光とされているのです。

2019/3/31 使徒の働き26:1、12~29 アグリッパ王の前で


・アグリッパ王の前で
 カイザリヤの獄中にありましたが、パウロはアグリッパ王の面前で弁明する機会が与えられます。この度は、ただ自分の潔白を証しするだけではなく、宣教的な要素が含まれています。
 パウロは若いころ熱心なユダヤ教徒でキリスト教に敵対していたことを、次にダマスコ途上で復活のキリストに出会った体験を証しします。「それは太陽よりも明るく輝く」天からの光でした。このイエスとの出会いがパウロの人生と人間性を根源的に転換させました。

・天からの啓示
 パウロはイエスとの出会いが何を意味するかについても啓示を受けました。「暗やみから光に、サタンの支配から神に信仰によって罪の赦しを得させ御国を受け継がせる」と証ししています。また彼は「天からの啓示にそむかず」と自分からも示された人生を歩みました。神の啓示を心から信じて告白する者の姿は人を圧倒するものがあります。

・「私のようになること」
 証しの衝撃に耐えきれずフェストは「気が狂っている」と叫びます。またアグリッパ王はなお躊躇を示します。
 それにたいしてパウロは「…私のようになってと証しを加えています。つまり、天からの啓示を拒んだり、無視するのではなく「私のように」信じるようにとの促しです。そのように告白するパウロの姿は、啓示の光と同じように、周囲の者たちのなかで、ひときわ輝いていました

2019/3/24 使徒の働き25:1~12 脱出の道


・新総督フェストと法廷
 ペリクスの後に、フェストが新総督として就任します。ユダヤ人たちは、早速、掛け合ってエルサレムでパウロの裁判をするように請求し、何とかしてパウロをどこかで殺そうとします。しかし、彼は総督官邸があるカイザリヤで裁判するように申し渡します。

・カイザルに上告
 カイザリヤで公判が始まると、早速、ユダヤ人たちは様々な罪状をねつ造してパウロを訴えます。それでもパウロにはまったく、ユダヤ人の法律に抵触する罪は見いだされませんでした。
 しかしフェストはユダヤ人の歓心を買うために、次はエルサレムで裁判を行うことを提案します。それに対してパウロは「私はカイザルに上訴」と申し出ました。フェストもローマ市民であるパウロの上告を認めざるをえず「あなたはカイザルに上訴したのだから、カイザルのもとへ行きなさい」と宣言しました。

・脱出の道
 ユダヤの地にやって来てからパウロは試練の連続で、かつユダヤ人暗殺団に命を狙われ続けます。しかもそれが2年も続きました。周囲の状況が暗く閉ざされているように見えました。しかし神は、かえって試練の中で、最善の道を備え、ちょうど良い時に、ローマ行きを実現させてくださったのです。
 Ⅰコリント10:13に次のようにあるとおりです。「神は真実な方ですから、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」

2019/3/17 使徒の働き24:1~16、24~27 キリスト者と良心


・弁護士テルトロとパウロ
 ローマ総督官邸において、大祭司アナニヤはテルトロという弁護士を雇ってパウロを告訴をします。彼は巧みな演説家でパウロが「ペストのような存在」で「ナザレ人という一派の首領で」あると非難します。
 それに対してパウロは、キリスト教の教えこそ旧約聖書を受け継ぐ正統な信仰であって何ら非難されるところはないと弁明します。また最後の審判について語り「そのために…責められることがない良心を保つように最善を尽くしていますと証しします。そこに彼の真実な人柄がにじみ出ています。

・総督ペリクスとパウロ
 裁判の5日後に、総督ペリクスと妻ドルシラに対してパウロは証しする機会が与えられます。この時、パウロは「正義と節制とやがて来る審判とを論じ」ました。それがパウロの信仰であり、生きる姿勢だったからです。ところがペリクスはその言葉に恐れを感じて、パウロを退けます。良心を痛めることも、悔い改めることをせず、世の楽しみと欲を優先したからでした。

・キリスト者と良心
 パウロの信仰姿勢は、私たちキリスト者全員にも当てはまることです。ローマ2:16に「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです とあります。ここでも私たちキリスト者にとって「正しい良心」が如何に大切であるかが明確に示されています。

2019/3/10 使徒の働き2:1~~11 虎口に立つ


・虎口に立つ
 騒動の後、使徒パウロはユダヤ議会で信仰の弁明をする機会が与えられました。彼は虎口に立たされることになったのです。そこで彼は、その場から逃げようとするのではく、しっかりと立って自分の証をし、信仰の根本について大胆に述べました。「全くきよい良心をもって、神の前に生活し」とあります。「きよい良心」は宗教の根本ですが、キリスト者だけが、その良心をもって信仰生活と市民生活をなすことができることを示します。

・復活の望み…希望
 「死者の復活という望み 」いう点が、パウロが弁明した第2点です。当時のユダヤ教には2派があり、1つのサドカイ派は復活を否定、もう1つのパリサイ派は復活を信じていましたが、その信仰は曖昧でした。しかしキリスト教ではイエス・キリストを信じる者は、その復活と共に新しく復活する希望が与えられるのです。人間には、死者の復活の教理以外に、根本的な希望は見いだすことができません。最大の敵は死だからです。

・ローマでも
 「エルサレムで…あかししたように、ローマでも証し」。パウロはエルサレムで議会という虎口に立たされましたが、逃げることがなくしっかりと立ったために、虎口を脱することができました。ローマでも危機に直面することは明らかです。そこでも彼は大胆に証しする使命と展望が与えられたのです。

2019/3/3 使徒の働き22:1~21 天からの光


・パウロの証 
 暴動の中、千人隊長とローマ兵に救い出された使徒パウロは、ユダヤ人群衆の前で、証の機会が与えられます。そこで、まずパウロは、以前の自分について証しします。つまり彼はタルソ生まれでしたが、小さい時分からエルサレムで熱心なユダヤ教徒として教育されて育ったことを証しします。その熱心さは、キリスト者を迫害し、殺害にも加担した程でした。

・天からの光
 彼がダマスコに、キリスト者捕縛のために向かう途中「突然、天からまばゆい光が私の回りを照らした」という体験をします。また光の中から「サウロ、サウロ」と彼を呼ぶ声を聞き、それがナザレ人イエスの声だと知ります。それは外側から捕らえられたような体験でした。その体験が彼の人生を180度転換させます。

・新しい召命
 キリストとであった後、パウロは光の輝きのため目が見えなくなり、従者にひかれてダマスコに入りました。そこでアナニヤというキリスト者を通して、キリストからの召命の言葉を受けます。それは異邦人宣教で、その召命によって、彼自身も、彼の生涯も全く新しくされました。
 このパウロの改心体験と召命は、形は違いますが、私たちも全く同じです。私たちが救われたのも、次に私たちがキリストの証人となるためです。
 

2019/2/24 使徒の働き21:1~14 御名のためなら


・船旅と苦難の預言
 パウロ一行は、ギリシヤ、アジヤの教会を後にして、船でフェニキヤそしてエルサレムへと向かいます。途中の町々で弟子たちと会いますが、彼らは異口同音にエルサレムでの苦難を示されて、パウロの旅を中止するように要請します。

・御名のためなら
 するとパウロは「私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています」と答えました。パウロの使徒としての使命感が強く表されています。彼はキリストと出会い、使徒としての召命を得たとき以来、もはや古い自分のに生きるのではなく、キリストの御名のために生きる姿勢が、明確にされていました。そしてキリストとのための苦難、だけではなく死も覚悟したいき方となっていました。

・殉教者の精神
 パウロの姿勢は、すべてのキリスト者も学ぶべき信仰姿勢です。それは彼の手紙でも示されています。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」ピリピ1:21
 このパウロの示すキリスト者の信仰姿勢は、後に殉教者の精神と受け継がれます。それは地上で生きるためにも、御国に凱旋するためにも、有益で筋の通った生き方です。

2019/2/17 使徒の働き20:33~38 受けるより与える方が


むさぼったことなく
 人の金銀や衣服をむさぼったことはありません」と、使徒パウロは自分の立場を利用して「むさぼる」ことがなかったことを明言します。むしろ「両手は」自分と仲間の必要のために働いたと語っています。自分のあり方を通して、無欲で献身的なリーダーの姿勢を示しています。

弱い者を助け
 さらに「労苦して弱い者を助けなければならないこと」の大切さを語ります。それはキリストのあり方であり、リーダーがまず、キリストを模範とした姿勢を示し、それが教会全体の姿勢になるように教えています。世では強い者が主体となりますが、教会では弱い者に合わせ、全体が進んで行くということです。

・受けるより与える方が
 主イエスの言葉として「受けるよりも与えるほうが幸いである」と語ります。世の人は、受ける幸いのみを求めます。しかし新しくされた人は「与える方が幸い」を知っています。パウロは、教会の中で、率先して「与える方が幸い」であることを示しました。そして教会リーダーたちも、その「幸い」を身をもって知り、示していくように促しています。