2019/8/11 出エジプト20:8~11 十戒…安息日について


・安息日
 第四戒は「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」。安息とは休むということです。その理由として、主なる神が天地創造の最後の日に休まれたことを上げています。神の民が、神の安息日につらなることを意味します。それゆえに、安息日は単なる休みではなく聖なる日と定められました。

・安息日の目的
 その他に、安息日の具体的目的は、人間から動物にいたるまでからだと精神を休めるということでした。人間の場合、労働はアダムの罪の呪いという意味があり、そこから解放されることは、罪と呪いからの救いという意味もありました。
 さらに安息日は、主なる神について知り、恐れることを学び、犠牲や礼拝、交わりのための宗教的目的に用いられた日でした。

・本体はキリスト
 しかし旧約の安息日は影であったため、キリスト到来後、廃棄されました。そして真の安息が彼自身にあり、天の御国で実現することが明らかにされました。「かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか(ヘブル10:25)と礼拝に集いつつ、御国到来に備えていくように勧められています。
 初代教会以来、礼拝の日はイエスの復活の日、すなわち主の日とされてきました。今の時代に生きる私たちも主日礼拝を重んじて、キリストによる真実の安息の落伍者にならないように励まし合いましょう。

2019/8/4 出エジプト20:1~7 十戒…神について


・第1戒
 神は、ご自身がイスラエル人をエジプトから救済した主なる神であることを明らかにした後、神と民の契約として十戒を与えられました。その第1戒は「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」とあります。エジプトで民は、雑多な神々を崇めていました。しかし、神の民とされたとき、真実の神である主のみを礼拝するように求めれらたのです。

・第2戒
 「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない」とあります。偶像とは人間の手で作った偽りの神のことです。エジプトの雑多な神々はみな動物などでイメージ化されており、木や石や金属の彫像で、あるいは絵で作られていました。また主なる神についても、偶像化することを禁じています。人は、自分の都合の良いように神々を創り出す罪の傾向があるのです。

・第3戒
 「主の御名を、みだりに唱えてはならない」とあります。「みだりに唱える」とは、主の名を勝手に用いて偽りの誓いをしたり、魔術や呪いに用いたり、悪魔払いなどに用いて、神の本来のご性質や御心を曲げる行為で、言葉による偶像化です。

  人の本性は、汚れと偽りに満ちていて、神の本来の姿をどこまでも曲げていきます。そこで私たちは、十戒を覚えると同時に、神ご自身をみ言葉で学び、知り、正しく礼拝するようにしなければなりません。

2019/7/28 出エジプト19:1~6 祭司の王国 聖なる国民


・宝の民
 モーセは民をシナイ山の麓に導きました。神は民との契約を結ぶにあたって、彼を山の頂に呼び寄せて、契約の目的を示します。それは第1に「すべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる」ということでした。すべての国は、神が起こし神が支配する国ですが、特別に神が尊び、大切にする民ということです。

・祭司の王国、聖なる国民
 さらに「祭司の王国、聖なる国民となる」と述べます。祭司とは神と人との仲介となる存在です。神臨在のもとで神のことばを受けて語り、人々の為に神にとりなす存在です。諸国の中で「祭司の王国」とは、イスラエルの国全体が神と諸国民の間に立ち仲介となると言うことです。
「聖なる国民」もまた、神の臨在する国民、神の領域にある国民と言うことで、諸国民に対して、神の臨在を知らせる役割をもつことです。しかし、旧約の民の特徴は、外的区別で聖のひな形をつくるだけでした。

・教会
 この後、イスラエル民族は役割を果たすのですが、そこで完成することはありませんでした。出エジプトの出来事はすべてひな形であり、完成は本体において実現するからです。事実、この時から1500年後にキリストが到来して、外的な形ではなく、霊的で真実な「祭司の王国」「聖なる国民」を集めることになります。それはキリストを信じる諸国民からなり、彼らの内に父の神は臨在し、彼らをも霊的「聖」の中に入れてくださったのです。私たちの教会がそれです。

2019/7/21 出エジプト17:8~16 主はわが旗


・アマレクとの戦い
 シンの荒野でイスラエルの民は、初めて戦いを経験します。アマレク人は荒野の民で、彼らは遊牧と略奪を生業とする人々でした。モーセはヨシュアを指揮官に任命して戦場に出します。彼はモーセの従者であると同時に、約束地でリーダーとして幾多の戦いを指揮することになる人物でした。

・モーセの手
 この時、モーセ自身はアロンとフルという長老を連れて丘の頂きに登り、神の杖を手に持ってかかげました。「モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった」とあります。肉と武器の戦いの背後で、霊の戦いが展開されていたのです。モーセの手が重くなったときに、アロンとフルが両側からモーセの手を支えたので、結局、ヨシュアはアマレクを打ち破ることができたのでした。

・主は わが旗
 モーセは記念の祭壇を築き、アドナイ・ニシと名付けました。「主はわが旗」という意味です。神の民にとってどのような戦いや業も、根本は霊の闘いであって、祈りを通して主なる神に向き、その祝福を求める大切さを示したのです。
 このことは新約の民である私たちの場合も同様です。主イエスのために、色々と業や奉仕をなすのですが、背後に祈りがなければ「アマレク」に圧倒されるのです。反対に祈りのバックアップですべての奉仕は祝福されということです。

2019/7/7 出エジプト16:1~15 天からのパン


・つぶやき
 出エジプトから1ヶ月が過ぎてシンの荒野に入った時、イスラエルの会衆は、食料の欠乏していることでモーセとアロンに対して「つぶやき」ました。「つぶやき」は人間的性急さからおこることで、本質は「神に対する」不信仰と反逆心です。彼らは神の民として選ばれましたが、古い体質のままでした。

・天からのパン
 そこで神は、荒野の40年間、徹底した訓練を与えました。それは神の恵みによって天から食料を与え、それに依存して生きる習慣をつけさせることでした。夕方のウズラもそうですが、何よりも朝に宿営の外に生じる「マナ」がそれでした。彼らは、神のことばに従って毎朝、それを集めて食料にしました。不思議にもそれは、各人、各家庭にちょうど良い量が与えられました。

・みことばによって生きる訓練
 この出来事について、後にモーセは次のように語っています。「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるため 」申命記8:3と。そのことをまずは、「マナ」という奇跡の食物で示されましたが、その意図することはみ言葉によって生きるということです。
 この点について主イエスご自身も次のように語ります。「人は神の口から出る1つ1つのことばによる 」マタイ4:4。それにより人間として神の子として祝福された歩みが可能となるのです。

2019/6/30 出エジプト14:1~14 海のなかの小道


・海辺で
 イスラエルの民は、雲の柱・火の柱に導かれて荒野の道に向かいました。しかし進んだと思ったら、引き返すように命じられ、ついに海辺の袋小路に宿営することになりました。この有様を見たパロは、再び心をかたくなにして、エジプトの全戦車部隊を率いて追撃してきました。

・恐れず、黙って
 イスラエルの民は、エジプト軍を見た時に「非情に恐れて、主に向かって叫んだ」とあります。またモーセに対してはつぶやきと非難の言葉を浴びせました。幾多の御業を見た後も、彼らの不信仰体質は変わっていませんでした。
 「恐れてはならない…あなたがたは黙っていなければならない」とモーセは語り、これから起こる神の救いをしっかりと見て、心に刻むように命令しました。

・海のなかの小道
 神の命令により、モーセが杖を海に差しのばしたとき、神の救いが現れました。強い東風が吹き、海は右と左に壁のようになって退き、海の真中にかわいた地が現れました。民はその所を進んだのでした。まさしく神の救いの道でした。エジプト軍は追撃してきましたが、その時には海が元に戻り、敵は海のなかに沈んだのです。
 この出来事は、み民の心と歴史に刻まれることになりました。現代の私たちも、この出来事を心に刻むべきです。その時、今の時代でも神の救いが見事に起こるからです。 

2019/6/23 出エジプト13:17~22 雲の柱 火の柱


・荒野の道
 過越の後、主なる神はイスラエル人を近道のペリシテ人の道ではなく、遠回りの荒野の道に導かれました。民の信仰の弱さを慮ってのことでした。また荒野の道は、危険のようでいて、彼らを神の民として訓練するために最善の道だったからです。

・雲の柱 火の柱
「主は昼は雲の柱の中に、夜は火の柱の中」にいて民を導いたとあります。雲の柱は、民を先導し、荒野の迷路の中でも最善の道に導きました。また日を避ける陰となって守りました。「火の柱」は民を照らし、夜の恐怖と災いから民を守りました。

・導きと臨在
 主なる神は旧約の民形成のはじめの段階で、明瞭な形でご自身が、共にいる神、導く神、救いの神であることを示されました。荒野の40年の後、カナンに定着した時には、雲の柱も火の柱も見えなくなりましたが、神は、まったく同じように民の救いの神として臨在されたのでした。

・私たち
 私たちの時代にも神は目には見えません。しかし旧約の民以上の愛を持って、神は私たちと共におり、導きを与え、救ってくださる方です。私たちは信仰の目によって、その神を見て、導きを受け、希望と勇気をもって、時代の荒野を前進していくのです。

2017/6/16 父の日礼拝 創世記28:10~19 父の価値観


・旅立ち
 ヤコブは兄エサウとの争いを避けて、父と母の元から離れて、逃げるようにして旅立ちます。旅の途中、不安と恐れの中で意志を枕にして野宿しました。その時、天からはしごが立てられて御使いが上り下りしているという不思議な夢を見ました。不安と恐れの中で、彼の一族が保ってきた天との交流の中に生きる価値の意味が明らかにされて、彼は一人ではないことを発見した体験でした。

・父の神との出会い
わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である」。神がヤコブのかたわらに立って告げたことばです。それと同時に、彼自身の祝福と約束の言葉を受けます。これは彼が父の神と出会う体験でした。
 彼はこれまでも神を父イサクとともに礼拝することがありましたが、その神を自分自身の神とは意識していませんでした。しかし父の礼拝する姿から、知らないうちに神を自分の価値として受け取っており、神もまた彼を覚えてくださったのです。

・生きた神信仰
 父の背中から学ぶといいますが、価値観についても同じです。しかし悪い価値観ならば、子どもの精神を抑圧し殺すことがあります。反対に、良い価値観は子どもを生かし、危機の中でも希望と平安を保たせます。父親は、普段の生活において自分自身に与えられた「価値」を自分の内に深め、それに従った人生を歩む必要があります。

2019/6/9 出エジプト12:1~7 過越と贖い


・傷のない子羊
 エジプトに対する十の災いの最後は、最も厳しい裁きとなります。しかし主なる神はイスラエル人のために裁きから逃れる手段を示します。それが「傷のない子羊」でした。「傷のない」とは完全という意味で、これまでノアやアブラハムについて「全き人」という場合の「全き(完全)」という言葉と同じです。実際に子羊は純白で如何にも傷も汚れもない姿です。

・贖い
「夕暮れにそれをほふり…その血を取り二本の門柱と、かもいに、それをつける」とあります。子羊の血が民の贖いとなったのです。「贖い」とは敵や他者の支配にある者を代価をもって買い戻すと言う原意があります。神は子羊の生命と血によって、民をエジプトの支配、偶像の支配、そして罪の支配から買い取り、ご自分の所有とされたのです。それで彼らは神の民として「腐ったパン種」のない交わりに招かれたのです。

・ 過越
 第十番目の裁き時、エジプト全家で人間と家畜の初子が、ことごとく殺されました。しかし神はイスラエルの家では血を見て過ぎ越されたので、裁きからまぬがれました。
 この出来事は今から3500年前の出来事ですが、私たちの時代に起こることのひな形です。私たちはイエスの血によって裁きを免れ、神の民として永遠の生命に入れられるのです。(ヨハネ1:29,3:36

2019/6/5 出エジプト7:1~7 十の災い


・モーセとパロ
 神はモーセを神の代理人、アロンを預言者としてエジプトの王パロと対決させます。また神ご自身が「パロの心をかたくなにし」て、そのかたくななな対決姿勢の中で、神の不思議としるしを際だたせることを予告します。世界一の権力者との真っ正面の対決を通して、主なる神ご自身を全世界に現すためでした。

・十の災い
 神がエジプトに対して行う「しるしと不思議」とは、十の災いでした。①ナイルが血に。かえる。ぶよ。④ア。⑤家畜の疫病。腫物。.⑧イナゴ。暗やみ。⑩初子を打つ。それぞれを通して、厳しくエジプトとパロに害を与えました。それはエジプトの神々と世界観に対する裁きでもありました。このようにして、神はエジプトと全世界に対して、主なる神こそが唯一の神、審判者であることを明らかにしました。

・ 闇のなかの光
 この時、神の民はエジプトの民と区別されました。たとえばエジプト全土が暗やみの覆われた時、「イスラエル人の住む所には光があった」とあります。裁きの中でも神の恵みは御民から取り去れることなく、特別に扱われたのです。
 今日でも、異なった意味で御民には区別された領域があり、どのような時にもそこだけは神の恵みの光に満ちているのです。それはイエス・キリストの御元です。黙示3:20