2013/10/20 ヨハネ福音書4:27~34 秘密の食物
・知らない食物
主イエスは弟子たちに対して「わたしには、あなたがたの知らない食物があります」と語られました。その時、弟子たちは、誰かが食べ物を持ってきたのだろうかとしか考えが及びませんでした。しかし、主イエスは弟子たちの食物の範ちゅうを超えた霊の食物について語っていたのです。
・御心なすこと
「わたしを遣わした方の御心を行い、そのみ業を成し遂げることが、私の食物です。」
主イエスは天の父から遣わされた神の子です。確かに彼は人として肉の食物も必要としましたが、それ以上に、霊の食物によって生かされていました。それが「御心を行い…成し遂げること」でした。そのことを主イエスは、サマリヤの女に福音を語ることで、あらためて覚え、また喜び満たされていたのです。
・「知らない食物」を知る
「知らない食物」は、キリストに連なる私たちにも必要な食物です。「血肉の食物は、やがてなくなる空しいものです。もし私たちが血肉の食物しか知らないなら、それと共に私たちの魂も滅ぶのです。そこで私たちもまた「知らない食物」を是非、知っておかなければならないのです。そのためには私たちもまた、霊の飢えに気づくこと、さらに私たち一人一人に対する「御心を知り」それを生涯にわたって「成し遂げる」という献身の心が必要です。
主イエスは弟子たちに対して「わたしには、あなたがたの知らない食物があります」と語られました。その時、弟子たちは、誰かが食べ物を持ってきたのだろうかとしか考えが及びませんでした。しかし、主イエスは弟子たちの食物の範ちゅうを超えた霊の食物について語っていたのです。
・御心なすこと
「わたしを遣わした方の御心を行い、そのみ業を成し遂げることが、私の食物です。」
主イエスは天の父から遣わされた神の子です。確かに彼は人として肉の食物も必要としましたが、それ以上に、霊の食物によって生かされていました。それが「御心を行い…成し遂げること」でした。そのことを主イエスは、サマリヤの女に福音を語ることで、あらためて覚え、また喜び満たされていたのです。
・「知らない食物」を知る
「知らない食物」は、キリストに連なる私たちにも必要な食物です。「血肉の食物は、やがてなくなる空しいものです。もし私たちが血肉の食物しか知らないなら、それと共に私たちの魂も滅ぶのです。そこで私たちもまた「知らない食物」を是非、知っておかなければならないのです。そのためには私たちもまた、霊の飢えに気づくこと、さらに私たち一人一人に対する「御心を知り」それを生涯にわたって「成し遂げる」という献身の心が必要です。
2013/10/13 ヨハネ福音書4:16~26 真の礼拝者
・この山でもエルサレムでもなく
サマリヤの女には心の痛みと重荷がありましたが、それは彼女の民族の礼拝では解決できませんでした。そこで主イエスは新しい礼拝の時代の到来を告げます。その時には、「この山でもなく、エルサレムでもなく」、地上のどの場所でもないところで礼拝がなされ、しかも救いが完全に成就するのです。
・真の礼拝者
その時、礼拝の形態が変わり「真の礼拝者」が起こされます。神が霊であるように、彼らも「霊とまことによって」礼拝します。それは内面の真実さということです。
主イエスは「今がその時」と語っていますが、主イエスと出会うその時が、すなわち「真の礼拝」の時となるということです。
・私です(エゴー エミー)
「わたしです(エゴーエミー)」とは、単に自分を名乗り出ているだけではなく、ご自分こそ絶対的存在で、神の子であることを宣言しているのです。出エジプト3章の「燃える柴」の箇所で現れた神の名と一緒です。
彼はサマリヤの女の前で、神としてのご自分を現しているのですが、同時に、現代の私たちの前でもみ言葉を通して「わたしです」と語りかけ、私たちとの交わり、また礼拝を求めておられます。
サマリヤの女には心の痛みと重荷がありましたが、それは彼女の民族の礼拝では解決できませんでした。そこで主イエスは新しい礼拝の時代の到来を告げます。その時には、「この山でもなく、エルサレムでもなく」、地上のどの場所でもないところで礼拝がなされ、しかも救いが完全に成就するのです。
・真の礼拝者
その時、礼拝の形態が変わり「真の礼拝者」が起こされます。神が霊であるように、彼らも「霊とまことによって」礼拝します。それは内面の真実さということです。
主イエスは「今がその時」と語っていますが、主イエスと出会うその時が、すなわち「真の礼拝」の時となるということです。
・私です(エゴー エミー)
「わたしです(エゴーエミー)」とは、単に自分を名乗り出ているだけではなく、ご自分こそ絶対的存在で、神の子であることを宣言しているのです。出エジプト3章の「燃える柴」の箇所で現れた神の名と一緒です。
彼はサマリヤの女の前で、神としてのご自分を現しているのですが、同時に、現代の私たちの前でもみ言葉を通して「わたしです」と語りかけ、私たちとの交わり、また礼拝を求めておられます。
2013/10/6 ヨハネ福音書4:9~15 生命の水
・岩盤
主イエスはサマリヤの女に生命の水を与えようとしておりました。生命の水とは、地上の水とは異なり、心の渇きを癒す霊的な水です。
しかし、主イエスとサマリヤの女との間には堅い岩盤がありました。民族の壁、宗教の壁、男女の壁、そして神と人との壁です。これらの岩盤にはばまれて、女はその必要すら理解できませんでした。
・この水を飲む者はまた渇く
井戸や祖先の偉大さに固執する女に対して、主イエスは、その空しさと限界を知らせるために明確に語ります。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。」と。
この悟りは私たちにも必要なことです。私たちも、女と同じように地上の水や物、この国の文化と宗教に固執する傾向があります。これらにすがる者も「また渇くのです。「渇く」というのは、単に喉が渇くというのではなく、生命が果てることを意味します。
・「わたし」が与える水
「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」 「わたし」とは、主イエスご自身です。主イエスは私たちの霊の渇きを満たすために、地上に来られました。そして、「永遠のいのちへの水」となる泉を私たちの心の奥底に与えようとしておられます。私たちは、ただ心から求める時に、その水は与えられるのです。
主イエスはサマリヤの女に生命の水を与えようとしておりました。生命の水とは、地上の水とは異なり、心の渇きを癒す霊的な水です。
しかし、主イエスとサマリヤの女との間には堅い岩盤がありました。民族の壁、宗教の壁、男女の壁、そして神と人との壁です。これらの岩盤にはばまれて、女はその必要すら理解できませんでした。
・この水を飲む者はまた渇く
井戸や祖先の偉大さに固執する女に対して、主イエスは、その空しさと限界を知らせるために明確に語ります。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。」と。
この悟りは私たちにも必要なことです。私たちも、女と同じように地上の水や物、この国の文化と宗教に固執する傾向があります。これらにすがる者も「また渇くのです。「渇く」というのは、単に喉が渇くというのではなく、生命が果てることを意味します。
・「わたし」が与える水
「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」 「わたし」とは、主イエスご自身です。主イエスは私たちの霊の渇きを満たすために、地上に来られました。そして、「永遠のいのちへの水」となる泉を私たちの心の奥底に与えようとしておられます。私たちは、ただ心から求める時に、その水は与えられるのです。
2013/9/29 ヨハネ黙示録21:1~4 涙がぬぐわれる時
・新しいエルサレム
世の終わりに、古い世界は過ぎ去って、新しい天と新しい地が出現します。罪も死もなく、神の恵みが支配する世界です。神の都エルサレムが、整えられた花嫁のように、天から下ってきます。その時に、キリスト者たちの人生の結末が、思いもよらない喜びと祝福に満たされることが明らかになります。
・神が共に
神の都には神と御子キリストが民と共に臨在します。地上の生涯においても、確かに神の臨在はありました。それは「密やか」であり「霊的に」でした。しかも、神の臨在感は、しばしば失われて、絶望と悲嘆の淵に立たされることが多かったのです。しかし神の都では、常に変わらず、大陽や月が照らすように明瞭に覚えることができます。
・涙がぬぐわれる時
神の民は、地上の生涯においては、悲しみがあり、心の奥底に涙をためているものです。しかし神の都では、神が「彼らの涙をすっかりぬぐい取ってくださる」のです。「もはや死もなく、悲しみ」もなく、彼らは永遠の慰めと喜びに包まれます。
・神の栄光を見る
召天者を覚える時に、ただ過去の悲しみに包まれるだけではなく、「終わりの時」に現される「神の栄光」を信仰の目で見る必要があります。そのようにして、私たちはこの世の悲しみの中でも、喜びを先取りして生きることができるのです。
世の終わりに、古い世界は過ぎ去って、新しい天と新しい地が出現します。罪も死もなく、神の恵みが支配する世界です。神の都エルサレムが、整えられた花嫁のように、天から下ってきます。その時に、キリスト者たちの人生の結末が、思いもよらない喜びと祝福に満たされることが明らかになります。
・神が共に
神の都には神と御子キリストが民と共に臨在します。地上の生涯においても、確かに神の臨在はありました。それは「密やか」であり「霊的に」でした。しかも、神の臨在感は、しばしば失われて、絶望と悲嘆の淵に立たされることが多かったのです。しかし神の都では、常に変わらず、大陽や月が照らすように明瞭に覚えることができます。
・涙がぬぐわれる時
神の民は、地上の生涯においては、悲しみがあり、心の奥底に涙をためているものです。しかし神の都では、神が「彼らの涙をすっかりぬぐい取ってくださる」のです。「もはや死もなく、悲しみ」もなく、彼らは永遠の慰めと喜びに包まれます。
・神の栄光を見る
召天者を覚える時に、ただ過去の悲しみに包まれるだけではなく、「終わりの時」に現される「神の栄光」を信仰の目で見る必要があります。そのようにして、私たちはこの世の悲しみの中でも、喜びを先取りして生きることができるのです。
2013/9/22 ヨハネ福音書4:1~8 旅の疲れで
・旅
主イエスはユダヤ人との対立を避けて、サマリヤ経由でガリラヤに向かいました。サマリヤはユダヤとガリラヤ地方の中間に位置していましたが、異邦人が住む地域で宗教も慣習も異なり、本来はまったく交流のない地域でした。
・旅の疲れで
「イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろして」とあります。主イエスは人となった方でしたから、弱さを持ち、渇きも空腹も覚えたのです。
一方では神として奇跡と復活をなし、他方では人として疲れを覚え弱さを持つ方、それが聖書が示すイエス・キリスト像です。そこに計り知れない恵みが秘められています。
・弱さでの出会い
「ひとりのサマリヤの女」が登場します。彼女は民族的にも宗教的にも主イエスと断絶がありましたが、主イエスは、初めから彼女との出会いを願っていました。彼女は、初め十分に自覚していませんでしたが、弱さを覚え、渇き、疲れた女性でした。色々な断絶がありましたが、弱さという一点で持って、主イエスとの深い交わりに招かれていました。
・すべて疲れた人は
人の弱さ魂の渇きは、同じ弱さ渇を持つ人でなければ、担うことができません。主イエスは私たちの弱さを担うために、私たちのもとに弱くなって来られたのです。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
主イエスはユダヤ人との対立を避けて、サマリヤ経由でガリラヤに向かいました。サマリヤはユダヤとガリラヤ地方の中間に位置していましたが、異邦人が住む地域で宗教も慣習も異なり、本来はまったく交流のない地域でした。
・旅の疲れで
「イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろして」とあります。主イエスは人となった方でしたから、弱さを持ち、渇きも空腹も覚えたのです。
一方では神として奇跡と復活をなし、他方では人として疲れを覚え弱さを持つ方、それが聖書が示すイエス・キリスト像です。そこに計り知れない恵みが秘められています。
・弱さでの出会い
「ひとりのサマリヤの女」が登場します。彼女は民族的にも宗教的にも主イエスと断絶がありましたが、主イエスは、初めから彼女との出会いを願っていました。彼女は、初め十分に自覚していませんでしたが、弱さを覚え、渇き、疲れた女性でした。色々な断絶がありましたが、弱さという一点で持って、主イエスとの深い交わりに招かれていました。
・すべて疲れた人は
人の弱さ魂の渇きは、同じ弱さ渇を持つ人でなければ、担うことができません。主イエスは私たちの弱さを担うために、私たちのもとに弱くなって来られたのです。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
2013/9/22 Ⅱコリント4:7~11 土の器と宝
・土の器
人間が「土の器」であるとは、聖書が示す姿です。 低く、卑しい存在、弱く、欠けのある存在、脆く壊れる存在ということです。私たちは年をとるごとに、弱さを覚え自分が土の器であることを再認識します。
・宝
「宝を、土の器の中に」とあります。その「宝」とは、永遠のいのち、御霊 、神の愛、神の子の権利などです。私たちキリスト者は、外見は世の人々と同じでも、その内には、神の宝が豊富に入れられているのです。
・宝が現れる時
私たちの内にある「宝」が外に現れる契機は、「四方八方から苦しめられる」時、「途方にくれる」時、「倒された」時です。そのような時に、私たち自身はパニックになり、弱ります。しかし神の救いが、鮮やかに現されるのです。ちょうど、土の器に欠けやヒビができ、そこから中の宝が輝くようにです。
・老年への勧めと励まし
そこで、ある牧師は老年について、次のように書いています。「たとえ老年になって、孤独や悲しみがあっても、主は共にいてくださいます。…生けるキリストの御手の上で、…主の平安に支えられて、ニコニコ笑って、感謝にあふれて、日々を生きて下さい。」
人間が「土の器」であるとは、聖書が示す姿です。 低く、卑しい存在、弱く、欠けのある存在、脆く壊れる存在ということです。私たちは年をとるごとに、弱さを覚え自分が土の器であることを再認識します。
・宝
「宝を、土の器の中に」とあります。その「宝」とは、永遠のいのち、御霊 、神の愛、神の子の権利などです。私たちキリスト者は、外見は世の人々と同じでも、その内には、神の宝が豊富に入れられているのです。
・宝が現れる時
私たちの内にある「宝」が外に現れる契機は、「四方八方から苦しめられる」時、「途方にくれる」時、「倒された」時です。そのような時に、私たち自身はパニックになり、弱ります。しかし神の救いが、鮮やかに現されるのです。ちょうど、土の器に欠けやヒビができ、そこから中の宝が輝くようにです。
・老年への勧めと励まし
そこで、ある牧師は老年について、次のように書いています。「たとえ老年になって、孤独や悲しみがあっても、主は共にいてくださいます。…生けるキリストの御手の上で、…主の平安に支えられて、ニコニコ笑って、感謝にあふれて、日々を生きて下さい。」
2013/9/8 ヨハネ福音書3:31~36 神の契約と印
・神の契約の言葉
主イエスは「上から来る方」で「すべてのものの上におられる」として紹介されています。つまり、天上のいかなる天使よりも、また地上のいかなる権威と力よりも優れているということです。またその「あかし」もまた、真実です。
・神は真実であるという印
また「そのあかしを受け入れた者は」神の救いの契約関係に入れられます。ちょうど契約書に印鑑を押すように、主イエスのあかしを信じた人は、永遠の契約書に印を押したとみなされます。その救いの契約に異議をはさむ者は天地に誰もいません。
・永遠のいのちを受ける
契約が成立した時に、そこで約束されている救いと恵みは一切が、信仰者のものになります。具体的な救いと恵みは聖書に逐一記されています。私たちはそれを確かめて知り、日々、救われるのです。その最大の賜物は永遠のいのちです。ちょうど主イエスが復活されたように、私たちの心と霊に復活の恵みと力を与えるのです。
・信仰者の誠実
私たち信仰者は神によって引き寄せられて信じるものとされましたが、この神の救いの契約に入れられた者は、それに相応しい信仰と誠実さをもって生涯を全うすべきです。その時に、神がその契約を守られて、その人の生涯に永遠のいのちの足跡が刻まれるのです。
主イエスは「上から来る方」で「すべてのものの上におられる」として紹介されています。つまり、天上のいかなる天使よりも、また地上のいかなる権威と力よりも優れているということです。またその「あかし」もまた、真実です。
・神は真実であるという印
また「そのあかしを受け入れた者は」神の救いの契約関係に入れられます。ちょうど契約書に印鑑を押すように、主イエスのあかしを信じた人は、永遠の契約書に印を押したとみなされます。その救いの契約に異議をはさむ者は天地に誰もいません。
・永遠のいのちを受ける
契約が成立した時に、そこで約束されている救いと恵みは一切が、信仰者のものになります。具体的な救いと恵みは聖書に逐一記されています。私たちはそれを確かめて知り、日々、救われるのです。その最大の賜物は永遠のいのちです。ちょうど主イエスが復活されたように、私たちの心と霊に復活の恵みと力を与えるのです。
・信仰者の誠実
私たち信仰者は神によって引き寄せられて信じるものとされましたが、この神の救いの契約に入れられた者は、それに相応しい信仰と誠実さをもって生涯を全うすべきです。その時に、神がその契約を守られて、その人の生涯に永遠のいのちの足跡が刻まれるのです。
2013/9/1 ヨハネ福音書3:17~21 光の子 闇の子
・キリスト
主イエスは救い主として闇の世界に遣わされました。そこで、キリストをとおして世にある者たちは、明瞭に光と闇として区別されていくことになります。キリストを信じる者は光の子とされ、キリストを退ける者は闇の子として留まります。
・裁きと闇の子
キリストが唯一の光なので、キリストを信じない者は、光よりも闇を愛する者です。そして、闇の子となり、世に執着して闇に染まります。また、光を憎むようになり、自分を光から遠ざけていきます。その結果、闇とともに苦しみ、滅び去ります。
・救いと光の子
しかし、キリストを信じた者たちはいわば「真理を行う者」です。神に対して「まことをなし」義とされ、祝福を受ける者ということです。彼らは、キリストの祝福のただ中に導かれます。つまりは「光のほうに」導かれていく光の子です。
・光の子とし
私たちはキリストを信じるという真理に導かれ、光の子とされています。そこで大切なことは、ただ真理であるキリスト信仰に留まることです。そのようにして神によって祝福され、光としての実を生み出すことができます。
主イエスは救い主として闇の世界に遣わされました。そこで、キリストをとおして世にある者たちは、明瞭に光と闇として区別されていくことになります。キリストを信じる者は光の子とされ、キリストを退ける者は闇の子として留まります。
・裁きと闇の子
キリストが唯一の光なので、キリストを信じない者は、光よりも闇を愛する者です。そして、闇の子となり、世に執着して闇に染まります。また、光を憎むようになり、自分を光から遠ざけていきます。その結果、闇とともに苦しみ、滅び去ります。
・救いと光の子
しかし、キリストを信じた者たちはいわば「真理を行う者」です。神に対して「まことをなし」義とされ、祝福を受ける者ということです。彼らは、キリストの祝福のただ中に導かれます。つまりは「光のほうに」導かれていく光の子です。
・光の子とし
私たちはキリストを信じるという真理に導かれ、光の子とされています。そこで大切なことは、ただ真理であるキリスト信仰に留まることです。そのようにして神によって祝福され、光としての実を生み出すことができます。
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