・からだは主のため
キリスト者は救われて自由とされています。しかし自由の意味についてよく理解する必要があり、自由であるからといってからだを罪に汚してはなりません。「からだは不品行のためにあるのではなく、主のため」だからです。
また「その御力によって私たちをもよみがえらせて」とあるとおり、救いと復活の力は、私たちの心だけではなく、からだにも及んでいるからです。
・肉の結合と霊の結合
「キリストのからだの一部」と信仰者の霊とからだがキリストとの霊的結合の中にあることが示されています。キリストから切り離して遊女のからだと「交わる」時、肉の結合となり罪の奴隷状態となります。
「主と交われば、一つ霊」とありますが、信仰にとどまるとき、心もからだも御霊の原理の中におかれることを示しています。
・神の栄光を現わす
「宮」とは聖所至聖所がある建物のことで、旧約時代は、そこに神の霊が宿るとされてきました。しかし今の時代、キリストの贖いによって「あなたがたのからだは…聖霊の宮」です。
そこで求められていることは「自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい」です。私たちの場合も、不品行の時代に生きていますが、私たちのからだと人生を通して「神の栄光」を現わす者として招かれているのです。
2023/2/26 1コリント6:12~20 神の栄光を現す
2023/2/19 1コリント6:1~11 神の国の正しさと平和
・教会内の争い
パウロは、教会員同士での財産等についての訴訟騒動を取り上げています。彼らはそれぞれ町の裁判所に訴え出ていたのです。
それ対してパウロは、些細なことで異邦人社会で訴訟を起こすべきではなく、むしろ聖徒たちに仲裁を頼んで解決するように促しています。それは世の終わりにおいて聖徒たちが世界を裁く立場となるので、そのあり方を今の時代に反映させるべきだからです。
・仲裁者と和解
「兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者」とあります。些細な問題をクリスチャンの仲裁で解決するようにということです。さらに「互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北」とあるように、些細な問題で相手をいちいち非難するのではなく、忍耐して、和解の姿勢を持つことの大切さを示しています。それがキリストの和解によって立つ神の国/教会のあるべき姿です。
・神の国の正しさと平和
私たちの場合も、教会についての認識が希薄で、世のサークルのひとつのように考える傾向があります。しかしそうではなく、教会はキリストの御名と聖霊によって洗われた神の国です。私たちはその聖さと正しさを保たなければならないのです。
「正しくない者は神の国を相続できない」とは、まさしくその通りの警告の言葉です。
2023/2/12 Ⅰコリント5:1~8 純粋で真実な祭り
・不品行の問題
パウロはコリント教会にあった不品行を取り上げています。それは異邦人にも見られないほどの悪でした。しかし、教会の指導者たちは、その不品行に対して何の対処もしていませんでした。 そこでパウロは「霊において…サタンに引き渡した」と語っています。断固として、不品行は裁かれるべきであることを示しています。
・古いパン種を取り除く
「あなたがたの高慢は、よくない」「ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませる」とあります。高慢があらゆる悪の原因であり、しかも指導者たちの高慢から、教会の中に、ありとあらゆる悪と腐敗が広がっていることを非難しています。
「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい」とあります。キリストの贖いによって聖められている教会において大切なことは、外側の悪と共に、内面の心に忍び込む高慢を取り除く必要を訴えています。
・純粋で真実な祭り
「純粋で真実なパンで、祭りを…」と、ここでも心の中のこと、その純粋さと真実が求められています。キリストの群れ、教会では、心の内側の良さを基本となるのです。また「祭り」とは、積極的な参加が求められる場で、教会の礼拝と交わりのことです。私たちも、この祭りに導かれているので、心からのコミットメントをしていきましょう。
2023/2/12 Ⅰコリント4:14~21 神の国と力
・福音による父
パウロは、コリント教会に対して霊の父であることを明言しています。色々な教師たちがいたのですが、異邦人の使徒としての唯一無二の立場です。
「福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだ」とは、ちょうど創世記でアダムが「生んだ」ということと比較できます。アダムの場合は地上の生命により彼に似た子たちを生んだのですが、パウロは、福音によってキリストの生命によって「生んだ」と語っています。それはアダムの生命以上に、リアルな生命です。
・私にならう者に
「私にならう者となって…」とあります。キリストに似た者としての私にならうようにということです。福音の言葉だけではなく、信仰姿勢と生活スタイル全体を真似るということです。
またパウロの代わりに愛弟子のテモテを遣わすので、彼をとおして学び、真似るように勧めています。教会の牧師も、そのような存在として建てられています。
・神の国は言葉にはなく力に
「神の国はことばにはなく、力に」とあります。コリント教会のある者たちは、キリスト教とは、ただの言葉だけの宗教と考え、知識を誇り高慢になっていました。
しかしパウロは、教会では、神の力が働く神の国であり、愛の祝福があり、神の裁きが起こるダイナミックな場であることを示しています。