2020/2/23 コロサイ2:11~15 キリスト共に生きる…キリストの割礼


・キリストの割礼
 パウロは異端の教えと対比しながら、キリストによる救いについて語っています。「肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けた」とあります。異端者らは目に見える印、割礼を強調していました。しかしパウロは、真の割礼は信仰による目に見えない割礼であり、「キリストの割礼」と語ります。それだけが、罪の支配下にある「肉のからだを脱ぎ捨てる」ことができるのです。

・キリストと共に生きる
 次にバプテスマによって、信仰者が「キリストとともに葬られ」「キリストとともによみがえらされた」ことを示します。バプテスマは目に見える洗礼ですが、本質は信仰であり、目に見えない聖霊の業が中心です。また、パウロは、現在のキリスト者の状態について「神は…キリストとともに生かして」と語ります。生きるとは、神を喜び、神のために人生を歩むということです。さらにパウロは、キリスト者は一切の律法の規定と責めからも解放されていることを示します。

・キリストと共に勝利者
 それゆえキリスト者は、一切の束縛としがらみから自由にされた勝利者とされています。私たちは、このことを、日常の生活スタイルで現し、また礼拝において証しするのです。

2020/2/16 コロサイ2:6~10 キリストに根ざして


・キリストにあって歩む
 キリストは神の子で力と恵みに満ちた方ですから、彼を受け入れた人の祝福は計り知れません。そこで、その信仰を内側だけに留めることなく、外側に現すことが大切です。
 「彼にあって歩みなさい」と勧められています。キリストの恵みと力に信頼して生活すること、キリストのみ心に沿って生きるようにとの勧めです。内なる信仰を目に見える生活に反映させるようにということです。

・キリストに根ざして
 「キリストの中に根ざし」とは、信仰によってすでにキリストの中に深く根ざしていることを意味します。「建てられ」とは、キリスト信仰を基礎として、その上に個々人の生活とともに教会を建てあげることを意味します。「信仰を堅くし」とありますが、信仰は教会建設とともに、より強固にされていくことを示します。 ここでも、信仰を外に向けて証しするようにと勧めていることになります。

・あふれるばかり感謝
「あふれるばかり感謝しなさい」とあります。感謝とは、キリスト者としての生と存在そのものの良さを覚え、それをもたらしたキリストを褒め称え、告白することです。世の人々は、世のものをたたえ、またけなします。しかし私たちキリスト者は、常にキリストに感謝するのです。神と御子キリストに対して、神は私たちを創造し、また贖いの御業を成し遂げられたのです。

2020/2/9 コロサイ2:1~5 知恵と知識の宝庫


・使徒としての苦闘
 パウロは、コロサイとラオデキア教会の人々に対して、彼らのために如何に苦闘しているかを知ってほしいと語っています。それは彼がキリストによって任命された使徒であることを知ってもらうためでした。苦闘を通して、福音のための熱心と聖日、異邦人教会に対する愛を証していたのです。

・キリストを真に知るため
 さらにパウロが苦闘を通して願っていたことは、彼らが「心に励ましを受け」ること、また「愛によって結び合わされ」ることでした。そうした中で、「理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるため」とあります。パウロの全精力は、ただすべての人々がキリストを知るためであったということです。

・知恵と知識の宝庫
「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されている」とあります。知恵とは実際的で知識とは合理的なものといわれますが、この2つで一切の知恵/知識を包含しています。異端の教師たちも、キリスト以外に色々な知恵知識について謎めいた伝授をしていました。しかしパウロは「キリストのみ」「キリストがすべて」と明確に語ります。
 「宝」とありますが、意味は宝庫/宝箱です。すべての栄光と価値がそこに隠されています。ただそれを開けば自分のものとされるのです。

 私たちにもこの宝庫が与えられていますが、これを開けるためには信仰と誠意が求められます。

2020/2/2 コロサイ人の手紙1:24~29 キリストの苦しみを満たす

・キリストの苦しみを満たす
 パウロは「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとして」と語り、それは「キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」ことだからと証しします。
 パウロはキリストに結びつくことを切に願っていました。それは具体的なキリストのからだである教会のために労苦し、苦しむことによってでした。パウロにとって霊的な深まりとは、心だけのことではなく、具体的な教会とのかかわりの中でなされていました。

・栄光の望みキリスト
 またパウロが教会のために労苦することを喜びとする理由は、自分の労苦を通して、奥義であり「栄光の望み」であるキリストが、教会にただ中で顕わにされるからです。地上における教会自体はキリストのからだですが、ラフな状態です。それがキリストの苦しみにあずかる中で、聖められ、整えられて栄光の教会に変えられていくのです。

・苦しみとキリストの力
 また教会のために苦しみ、また労苦し奮闘するとき、そこに「キリストの力」が力強く働くと証しています。キリストの苦しみの欠けたところは、キリストとの接点であり、同時にキリストの復活の力が発生点であるということです。
 教会では、お客のように愛を受けることを喜ぶという側面もあります。しかしキリストを知り、キリストの力を知るためには、「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」という姿勢が大切です。