2019/5/26 出エジプト6:1~9 神の民とされるため


・主の名と救い
 かつて神は、アブラハムら父祖たちには「全能の神」としてご自身を啓示されました。今、モーセと民には新しく「主という名」でご自身を現されました。それによってご自身をさらに明瞭に示し、また民を救うためでした。神がご自身を現された時に、新しい救いの時代が起こるのです。

・契約と贖い
 「主の名」は契約と密接に関係します。神は父祖との契約を思い起こされ、それに対して真実かつ恵みをもって実現する方です。すなわち、民の苦悩と叫びを聞き、そこから救い出す方です。またご自分の家族として最大限の努力と犠牲でもってしても贖い出す方であることを告げています。

・わたしの民、あなたがたの神
 「わたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる」とは、神の救いの目的ですこの目的に従って、神は民を救い、愛し、訓練することによって聖なる神の民として整えていくことになります。
 私たちは新約の民であり、さらにすぐれた契約と救いに招かれています。その目的は、旧約の民よりも、さらにすぐれたものです。その目的にしたがって、私たちに対しても、神は愛を示して祝福し、あるいは訓練して聖なる民としようとしておられるのです。

2019/5/19 出エジプト3:1~15 神の名と召命


・燃える柴
 モーセは羊を追ってホレブの山に来た時、柴が燃えていたのに焼け尽きないという不思議な光景を目にします。彼が近づいていった時に柴の中から、神の声が聞こえました。
 さらに「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と。神は、アブラハムをはじめとした父祖の神であり、彼らとの契約を覚えてモーセに現れたのです。神との出会いの場は聖なる場であるので、モーセはご命令によって靴を脱いでひざまづいていました。

・神の名と召命
 神は契約に従って、モーセに対してイスラエル人の救出の召命を与えました。そこでモーセは神の名を問うたところ「わたしは「わたしはあるという者」である」と告げます。さらにその神のご性質を表す名として「主(ヤーウェ)」と告げます。その名は、昔も今も未来も共に存在し、契約を実現する神ということです。そして主なる神が、モーセにご自分の名を新たに知らせた時、旧約の救済史は大きく動き出しました。

・私たちに示される御名
 私たち新約の民には、モーセ以上に御名が啓示されています。それは神の子イエスの名です。私たちの場合も、礼拝ごとに彼の名を心の深くに知らされるごとに、私たち自身と私たちの周辺は、その名にふさわしい方向に動いていくのです。 

2019/5/12 母の日礼拝 出エジプト2:1~10 母性と生命


・モーセの誕生と母の信仰
 「男の子はみな、ナイルに投げ込まなければならない」とのパロの迫害の時代にモーセは誕生しました。
 しかしモーセの母は「そのかわいいのを見て、三か月の間その子を隠して」おきました。「かわいい」とは自分の感情だけではなく「神の目にかなった」ということです。モーセの母は、その思いを信仰によって深めたのです。

・パロの娘と憐れみ
隠しきれなくなったので、パピルス製のかごを手に入れその子を中に入れ」とあります。母は信仰により神の救済にゆだねたのです。それをパロの娘が見つけ、泣いている姿を見て「その子をあわれに思い」とあります。これもまた人間の感情と思いですが、背後にそのこと共にある神の働きがありました。その結果、すべてのことが益となり、モーセは豊かないのちの中で育てられることになりました。

・いのちと母性。
 私たちに与えられている子どもたちは、みな小さなモーセです。その大切ないのちを育てるために、神が母性に働くと言うことは、今も昔も同じです。そして自分の子供を「かわいい」と思うとき、それは自分だけの思いではないことを覚えることが大切だと思うのです。

2019/5/5 出エジプト1:1、8~21 出エジプト序章


出エジプト序章
 出エジプト記はエジプトで奴隷状態の御民がモーセによって脱出するという物語です。これは旧約聖書全体の救済の基本的パターンとなり、バビロン捕囚からの解放、死と罪からの救済と言う形に展開していきます。出エジプトの出来事はBC1450年頃で、最近は考古学的にも考証されています。
 また神が主(ヤーウェ)として顕現し、神の民は聖なる民として召され、契約の中におかれたことが記されています。著者はモーセです。

・祝福と苦役
「イスラエル人は多産だったので、おびただしくふえ」とは彼らが神の祝福を受けた民であることを示しています。実際、ヤコブ一族がエジプトに下った時には70人だったのに、約400年後には優に100万人を超える集団となっていました。
 ところが「ヨセフのことを知らない新しい王」が起こった時、イスラエル人に脅威を感じたエジプト王は苦役を課しさらには、イスラエル人の男の子を殺害するという非情手段に訴えます。死の力で弾圧しようとしたのです。

・神への恐れと祝福
 その危機を救ったのはシフラとプアという助産婦たちでした。彼女たちは王の命令よりも神を恐れて、イスラエル人の男の子たちを救ったのです。その結果、御民も守られ、また彼女たちも祝福されました。
 現代でも、神は具体的な人間を通してご自身の祝福をくだされ、神を恐れて従う人々は祝福されるのです。

2019/4/28 使徒の働き28:11~31 ローマでの宣教

・ローマで
 パウロはマルタ島から船でナポリ郊外の町ポテオリに着き、そこからアッピア街道を通ってローマにたどり着きます。ローマでは軟禁状態で、そこでローマ在住のユダヤ人に福音を証ししました。パウロはユダヤで弁明したようにイエスこそが律法と預言者によって到来した神の子キリストであることを証しし、また彼によって救いが成就し神の国が到来したことを伝えました。

・ユダヤ人たちの拒絶
 ところがローマのユダヤ人たちもまた、イエスの福音を受け入れようとしませんでした。そこでパウロはイザヤ書6章のかたくなの預言を示します。つまり「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。」とあるとおりです。彼らの先入観と高慢のため「心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっている」状態となっていたのです。それは立ち返り、わたしにいやされることのないため」と続きます。彼らが拒絶したのではなく、神によって拒絶されたということです。

・異邦人に
神のこの救いは、異邦人に送られました」とあります。ユダヤ人の躓きによって、かえって異邦人に福音が提供されることになったと言うことです。神の子を犠牲にし、旧約の民を犠牲にして、神は救いと愛を異邦人に向けてくださったと言うことです。今の時代、世界の果てに位置する私たちにも伝えられているのです。しっかりと福音に耳を傾け、感謝をもって受け取りましょう。