2017/9/24 ヘブル12:18~28 大祝会に近づいて



・キリスト者の将来
 すべての人間に人生の限りがあるように、キリスト者の生涯にも限りがあります。このことは、召天された兄姉のことを思うときに、再認識させられます。
 しかしみ言葉によれば、他の人々とはまったく異なる未来が約束されています。地上の人々の将来に対する思いは恐れと不安だとすれば、キリスト者の将来は、希望と喜びです。

・大祝会に近づいて
「しかしあなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです」
「あなたがた」とは召天者であり、今、キリストを信じる者たちのことです。地上のシオンも、エルサレムも仮の都にすぎません。天の都こそが神臨在のコミュニティーでです。また「大祝会」とありますが、そこでは喜びと生命の充満があることを意味します。

・待望する
 私たち地上に生きるものたちには、当然、地上の生命に対する多少の執着と未練があります。しかし召天した兄姉のことを覚えて、地上の生命は過ぎ去ることを直視し、さらにすぐれた天の喜びに対する待望心を養いましょう。

2017/9/17 敬老の招待礼拝 イザヤ46:3~4 白髪になっても

・「わたし」…神
 人間には生まれてから死ぬまで、私たちの近くにいる存在があります。父母、兄弟、友人、伴侶、子どもなどです。私たちは、その人々に支えられて成長し、生活してきました。しかし神ご自身が「あなた」に対して語りかけ、「わたしに聞け」と語り、主なる神ご自身が、あなたのもっとも近くにいる存在者であることを示しています。

・「あなた」を担う神
 神は「・・・胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ」と語りかけています。母よりも前から、誰よりも近くにあって、「あなた」を担う方、運ぶ方としてご自分を啓示します。目には見えませんが、人生のすべての局面において神こそが愛と恵みの計画を実現するために、あなたを担ってくださっていたということです。

・「あなたが白髪になっても」
あなたがたが年をとっても、あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う」とあります。
 年をとり、白髪になると、健康に不安を持ち、将来を憂うのですが、それを払拭するように神は「あなた」に対しても語りかけておられます。というのは、神は「あなた」を担う者、愛する者として、選び定めておられるからです。そこで「あなた」の側では、ただ心から信頼して、委ねきることだけが求められているということです。


2017/9/10  1コリント13:1~8 「愛は絶えることがない」

・愛がないなら
 婚約式の前に、夫婦関係についてお話しします。テーマは「愛」についてです。1コリント13章は教会の交わりだけではなく、夫婦関係についてそのまま適応できます。13節では「愛がないなら」という言葉がくり返し語られ、「何の値うちもない」「何の役にも立たない」と結論づけられます。結婚して夫婦になることで、色々な目標を持つのですが、「愛がないなら」「何の値うちもない」ということになります。

・愛の実際
 パウロがここで言っている「愛」とは、観念的ではなく、隣人に対する「愛」です。夫婦の場合は、それぞれ目の前にいる伴侶ということになります。愛は、その具体的な関係の中でのみ形づくられます。「愛は寛容であり、愛は親切…」とあります。それはどちらも自分勝手を押さえて、相手を受け入れる態度です。「すべてをがまんし…もまた、自分の直情的な怒りを抑えて、相手を建て上げることを第1とする態度です。それは生来の人間には不可能なのですが、それでもキリストの愛の中で、達成しようと志すことが大切です。

・愛は絶えることがない
「愛」は決して華やかなものでなく地味なものです。しかし「愛は決して絶えることがありません」と断言します。互いに不完全で異なる者どうしが、夫婦となります。神はそこで完全、永遠の価値を作ってくださるのです。


2017/9/3 エレミヤ10:1~16,16:19~20 主に並ぶ者はない



「異邦人の道を見習うな」
 エレミヤは断固として「異邦人の道を見習うな 」と語ります。それは偶像崇拝のことで、それ自体がむなしく、実態のないものだからです。実際にそれらは「かかしのようで、ものも言えず、歩けない」のです。私たちの社会に存在する神仏の像もみな木偶の坊で、私たちは決してそれらを見習ってはならないのです。

・主に並ぶものはない
あなたに並ぶ者はありません 」とエレミヤは告白します。聖書の神は唯一絶対者で、天地創造者です。また歴史を導く方で、他に神はいないのです。また何ものよりも「大きい」方で、存在においても、力においても、ご性質において、何ものよりも優れているのです。エレミヤは、自分の国が滅亡の危機にある中でも、神についての信仰告白は決してぶれることはなかったのです。

・諸国の民は来て
 諸国の民は地の果てから来て「私たちの先祖が受け継いだものは、ただ偽るもの、何の役にも立たないむなしいものばかりだった。」と言うことを預言しています。確かにエレミヤの時代から数百年後、多くの者たちが地の果てから来て、その告白をしてきました。エレミヤの預言の通りになったと言うことです。

 そして私自身も、神の御許に導かれた「諸国の民」「地の果て」のひとりですが、まったく同じ告白をせずにはおられません。主なる神こそが比類無き神、真実の神です。