2017/4/23 ピリピ3:1~7 真の割礼者



・肉体だけの割礼者
 使徒パウロは交わりを破壊する律法主義的教師に気をつけるようにと語ります。彼らは信仰者に対して律法の遵守と割礼が必要であると主張していました。しかし、使徒は彼らは「犬」「悪い働き人」「肉を切っただけの者」に過ぎないと厳しい言葉で非難します。

・真の割礼者
 「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない」とあります。礼拝、神を誇り(賛美し)、人間ではなく神に頼る者こそ、神の民の姿です。「私たちのほうこそ割礼の者」と続きます。「割礼」とは聖められた者、神の民のしるしということですが、それは肉ではなく、心になされるものなのです。神は肉の割礼者を嫌い、心の割礼者を喜ばれます。また心の割礼者は、真の割礼者としてキリストを通して神の祝福を一身に受ける異なります。

・使徒パウロの例
 使徒パウロは自分を例として、肉の割礼の無益さ、キリストによる「割礼」の有益さについて証言します。彼は生粋のイスラエル人で肉の割礼者でした。しかもパリサイ人として誰よりも律法の業に熱心だったのです。「しかし私にとって得であった…ものを…損と思うように」なったと。
 私たちの周囲には肉の割礼者も律法を主張する者もいませんが、しかし人間(肉)を誇る傾向は根深くあります。それを克服することが教会の交わりのとって大切なことです。

2017/4/16 ルカ福音書24:13~35 エマオの途上



・二人の弟子たち
 主イエスの復活の噂ある中、2人の弟子は自分たちの村に帰ろうとしていました。彼らはイエスの復活をなかなか受け入れることなく、堂々巡りの話し合いをしながら歩いていました。
 そこに旅人姿のイエスが近づいていったのですが、イエスとは気がつかず、何を話しているか問うても、ただ表情を暗くするだけでした。

・エマオへの途上
 そこでイエスは彼らのかたくなな心を責め、次に聖書全体からご自分について書いてあることを解きあかされました。
 目的の村に近づいたときに、二人の弟子たちは旅人姿のイエスを自分たちの家に泊まるように強いて願いました。食卓でイエスが彼らにパンをとって分けたときに、彼らの目が開かれ、旅人が復活したイエスであると初めて分かりました。

・心はうちに燃えて
 「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も私たちの心はうちに燃えていたではないか。」これは、二人の弟子たちの言葉です。聖書からキリストについて説きあかされ、その死と復活についての話に耳を傾けるときに、人の心はうちに燃えるのです。それはキリストの復活の生命が、その人の中にも灯されるからです。
 彼らはすぐさまエルサレム教会に帰りましたが、その時、11使徒たちもキリスト復活目撃の話に湧いていました。そこで彼らも証をしたのですが、そのようにして教会全体も、キリスト信仰の火に強く燃やされることとなったのです。

2017/4/9 ルカ23:32~43 ふたりの犯罪人



・十字架のイエス
 「どくろ」というところで、イエスは2人の犯罪人とともに十字架に付けられました。十字架刑は、社会的にも宗教的にも最も呪われた者が受ける刑罰とされていました。
 民衆も、指導者たちも、兵士たちも、みなイエスをあざ笑い、口汚く罵っていました。それは1人の人をいじめ抜く茶番劇のようでしたが、神は、そこで真実をなそうとしておられました。

・ひとりの犯罪人
 イエスと共に十字かけられていた「ひとりの犯罪人」は断末魔の苦しみの中で、イエスと共にいながら解放されないことに怒り、イエスに悪口を言います。彼にとって、救いとはただ、肉体の苦しみから解放されることだけを意味しました。現代でもイエスの福音を聞いて、ただの御利益を求める者は、躓きます。

・もうひとりの犯罪人
 しかし「もうひとりの犯罪人」は、イエスと同じように十字架上にあったのですが、罪一つないイエスを見て、神の子キリストであるということに気づきます。彼は「あなたの御国で…」と、イエスに対して信仰告白をしています。イエスは、地上の王ではなく、神の国の王であると告白したのです。

・パラダイス
 パラダイスとは、地上とは異なる永遠の国であり、罪悪も苦しみもなく、神の愛と平和といのちが溢れる国です。それはイエスを信じた者だけが招かれる所です。「もうひとりの犯罪人」は信仰告白によって、死を味わうことなく、即、イエスと共にパラダイスにうつされたのです。

2017/4/2 ルカ22:39~46 オリーブ山の祈り 



・オリーブ山の祈り
 主イエスは十字架前夜、オリーブ山で祈りの時をもちました。弟子たちから少し離れた所で、ご自分は「ひざまずいて…祈られた」とあります。また弟子たちにも、ともに祈るように命令しました。サタンは主イエスと弟子たちとを激しく誘惑していました。それを退ける唯一の手段として、祈りの座をもうけることを身をもって示しています。

・私の願いではなく
 主イエスは「この杯をわたしから取りのけてください」と願っています。「杯」とは父の神が、示しておられる十字架の苦難のことです。人間性と弱さを備えた主イエスにとって、十字架で呪われた者として死ぬことは大きな恐れと苦痛でした。また弟子たちの離反も大きな悲しみでした。「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりに」と続けて祈っています。

・祈りの戦いと勝利
 主イエスはサタンの誘惑の中で、「汗が血のしずくのよう」に流れるほど祈りの苦闘をしました。そして勝利して、心から父のみこころの通りに歩むという従順を獲得し、さらにそこに希望を見いだしました。
 「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」ヘブル12:2とあるとおりです。
 オリーブ山の祈りで、主イエスは私たちにも祈りの座をもうけてくださいました。その祈りの座は単なる苦闘ではなく、主イエスによって勝利が約束された恵みの座です。