2016/2/21 ヨハネ福音書18:15~27 「ペテロの否認」



・大祭司の中庭で
 ペテロはもう一人の弟子と共にイエスの後についていき大祭司の中庭まで行きました。しかしペテロは「イエスのためにいのちさえ捨てる」という気概はなく、自分が弟子であることを隠し、門番の女に対しても、イエスの弟子であることを否認していました。
 それに対して、イエスの方は、ペテロとは大違いです。イエスは大祭司邸で尋問を受けますが、その態度は堂々としており、公然として証ししています。危機に際して、神の子と人間の態度は、対比的です。

・ペテロの否認
 聖書はさらに、ペテロの弱さに焦点を当てます。彼は一度成らず、二度三度とイエスを否認しています。「そんな者ではない」という言葉は、イエスが神の子であることも否定した言葉です。
 三度目に否認したときに「すぐ鶏が鳴いた」とあります。この時、ペテロはイエスの預言(13:38)を思い起こし、初めて自分の弱さと罪を認識したのです。

・回復
 ここで描かれているペテロの姿は、すべてのキリスト者の典型的な姿です。人間的な強さは偽りであり、すべての人は罪人で弱いのです。しかし、その弱さと罪を認識することが、成長の始まりとなります。「キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい」(Ⅱテモテ2:1) とありますが、キリスト者はただキリストの恵みを知ることで、成長して強くなるのです。

2016/2/14 ヨハネ福音書18:1~11 イエスの捕縛



・園で
 イエスの一団はオリーブ山の園に行きました。そこに彼らの隠れ家があったからです。しかし、ユダの手引きで兵士と役人たちが、捕縛のために、そこにやって来ました。兵士だけで200人以上の集団でした。満月の夜でしたが、彼らは灯火と松明を手にしていました。イエスと弟子たちをひとりも逃さないという決意でした。

・「それはわたしです」
 その一団に対して、主イエスは逃げも隠れもせず、むしろ弟子たちを救うため、前に出て自ら進んで捕縛されました。彼らがナザレのイエスを探している旨を告げたときに、「それはわたしです」と語っていますが、その時に敵は「後ずさりし…地に倒れた」とあります。イエスの臨在とその言葉に神としての権威と力があったからです。

・だれひとり失われず
 「ただのひとりをも失いませんでした」とありますが、それはイエスの祈りであり、意志でした。その祈りと意志は、この時だけではなく弟子たちの生涯を支配しました。また罪と死の力をも、退ける祈りであり、意志です。
 またイエスのみことばは、イエスの祈り、意志、力、愛のすべてが凝縮して私たちに提供されているものです。さながらイエスの盾です。私たちはイエスのみことば頼るときに、どのような危機からも守られるのです。

2016/2/7 ヨハネ福音書17:20~26 世が信じるため



・後の弟子たちと「一つ」
 主イエスは福音を通して弟子になった者たちも12弟子と同じように愛し、一つになるように執りなしています。「あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように」とありますが、それは三位一体の神の特有の存在形態です。個を保って存在すると同時に、密接な交わりの中にあることを示します。弟子たちの間でそのような「一つ」の交わりを築くとは、互いが互いを心の内に想うこと、祈ることです。その霊的「一つ」を土台として、具体的な「一つ」の交わりが築かれるのです。

・栄光と「全うされた一つ」
 「栄光」とは、神の臨在と愛と救いのすばらしさのことで、その「栄光」は、互いの交わりが深められように導きます。主イエスは「栄光」を教会に与え、「全うされて一つ」になるように祈っています。それは父と子の交わりのように強く、深く、広く、長く交わりが築かれることです。

・世が信じるため
 「世が信じるため」とあります。世の特徴は罪、敵対、ねたみ、憎しみ、分裂です。その状態はさながら闇であって、人々は絶望しています。しかし教会の「一つ」の交わりを見る時に、世にはない光を覚えます。また神の栄光が教会に留まっているので、心の内でも不思議な栄光を覚えるのです。そのようにして、世の人も神の救いが「一つ」の群れの中にあることを信じるようになるのです。

2016/1/31 ヨハネ福音書17:17~19 真理による聖別



・真理による聖別
「真理によって彼らを聖め別って」とあります。真理とは永遠に変わらないもので、神の領域にのみ属するものです。しかしイエスの弟子たちには与えられ、彼らを聖別する働きをします。弟子たちは、本来、世の罪と汚れに染まっていた者たちですが、真理によって、世にありながら、神の民として存在できます。

みことばは真理
 「あなたのみことばは真理」とあります。みことばは人間のことばと同じようですが、本質は不変で、神の力と生命に満ちています。そして世にある弟子たちを聖別する力があります。「神のことばは生きていて、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し…判別することができます」(ヘブ4:12)とあるとおりです。 また汚れたときには、心を洗いきよめる力があります。

真理のための派遣
 「わたしも彼らを世に遣わし」とあります。弟子たちは世において真理とともに生きるのですが、同時に、真理を証するために世に派遣されています。
 世の人々は、様々な偽りの中に翻弄されて生き、滅びていきます。その世において、弟子たちが真理の証しをすることで、同じ真理に招かれる人々がおこってくるのです。