2015/12/27 詩篇124:1~8 神に助けられた一年



・「もしも主が…」
 師走は慌ただしく、なかなか一年を回顧する機会がありません。しかし主イエスは、見えない手で、私たちを支え、また共にいて助けてくださったのです。そこで「もしも主が私たちの味方でなかったなら」と否定的仮定法を用いて、み恵みと助けを回顧することがよいことです。

・「人々が…立ち上がった」時
 「人々が私に逆らって立ち上がったとき」の「人々」とはアダムと言うことで、罪の奴隷となっている人のことを意味します。神の民の周囲はすべてアダムであり、私たち自身もアダムの性質を宿しております。それらが何の歯止めもなく、神の子とされた「私に襲いかかったなら、「私」は信仰も生活も破綻していたことでしょう。またアダムとは弱さを持つ存在を意味し、肉体の弱さ故の苦難も厳しいのです。その時に、神が味方でなかったなら、失望の大水に飲み込まれていたのです。

・鳥のように助け出された
 「ほむべきかな。主。」とあります。仮定法を通して回顧したときに、反対に、神の恵みと助けを、強烈に覚えさせられたのです。
  また「鳥のように助け出された」とあります。小鳥は弱い存在で、絶えず生命が脅かされている生命です。世にある私たちそのものです。しかし、私たちの場合は神が愛する小鳥とされているのです。
 私たちは一年を回顧して、神が私たちの味方で助け手であることをしっかりと覚え、新年の展望を描いていきましょう



、しつ

2015/12/20 クリスマス礼拝 マリヤの讃歌 ルカ1:46~55



マリヤの讃歌
 マリヤの讃歌は魂と霊の賛美です。人は表面的に喜ぶことがあっても、魂と霊という奥底から賛美、喜び讃えると言うことはありません。マリヤが霊から賛美するのは、マリヤが受けた恵みの本質は霊的だからです。霊的な賛美は深く、永続し、すべての時代に、すべての世界に響き渡ります。

・卑しいはしために目を留め
 マリヤの賛美は、神が「卑しいはしために目を留めてくださった」という信仰から起こっています。神は崇高者で人間から隔絶した方です。その方が、「卑しい」「私に」を留めて奇跡をなしてくださったのです。「目を留める」とは好意を持ち、選び、深い契約関係に入ることを意味します。具体的には聖霊によって神の子を宿したと言うことです。この個人的な体験についての確信が彼女をして賛美に向かわせています。

・私にも
 私たちはマリヤとは異なり、肉体的にキリストを宿すと言うことはありません。しかし、御言葉により、聖霊を通してキリストを宿すという点では、同じ祝福にあずかっています。
 そのことも、神が「私に」「目を留めてくださった」ため、「私」に対する「深い憐れみ」によります。この霊的な事実をしっかりと受け止め、私たちもマリヤと共に、魂と霊による賛美に導かれましょう。

2015/12/13 マタイ福音書1:18~25 処女懐胎とインマヌエル



・ヨセフの迷いと御告げ
 ヨセフは許嫁のマリヤが身重になったため内密に去らせようと決めたのですが、なお、不可解な出来事のゆえ迷いの中にありました。
 そして、彼が夢の中にあるときに、御使いが現れてマリヤが身重になったのは「聖霊による」と語り、さらに「恐れないで…妻マリヤを迎えなさい」と語ります。

・「聖霊による」処女懐胎
 聖霊によって処女のままで懐胎することは奇跡ですが、そこには二つの意味があります。1つは神が完全な神の聖さを保ったままで、地上に生まれたということ。
 1つは女の胎を借りて、血肉を持つ完全な人間として産まれたということです。アダムの罪は持ちませんが、人間として弱さを知り、痛み苦しみを知る存在でした。そのようにして、神と人間の仲介者、贖罪者となりうるのです。

・インマヌエル
 この出来事はイザヤ7:14の預言の成就でした。「その名はインマヌエル」、意味は「神は私たちとともにおられるです。これは旧約以来の理想で、神がどのようなときにも民を守り、救い、幸いに導くということです。しかし、その理想は、人間の罪ゆえに、実現できませんでした。ただ神であり、人である「お方」だけが、インマヌエルとなり得るのです。
 しかしながら、彼を受け取るためには、躓きを克服する必要がありました。それはマリヤの「聖霊による」処女懐胎を信じ受け入れることです。

 ヨセフは御告げを信じて、マリヤと共にインマヌエルを受け入れましたが、私たちも同じように信じて、心から受け入れるべきです。

2015/11/29 ヨハネ福音書16:25~33 勇敢でありなさい 



・弟子たちが小さなイエスに
 主イエスはご自身が天に帰った後、弟子たちが、信仰的に自立するように促しています。つまり自分で父の神に祈るようになること、「父ご自身があなたがたを愛している」ことを覚えることです。そして「小さなイエス」として世において生き、証しするようになることです。

・イエスの勝利と模範
 また主イエスは十字架に向かうことになりますが、その姿を模範とするように語ります。つまり世において試練があったとしても、信仰により霊の目を開くことです。それによって父の神がいつも共にあって救い、勝利を得させることが分かるのです。
 「私はすでに世に勝ったのです」とありますが、この言葉において主イエスが信仰によって、霊の目を見開いて前進している様子が分かります。

・勇敢でありなさい
 「勇敢でありなさい」と弟子たちを励ましています。主イエスのように信仰の目を開くときに心の内からみ霊によって勇気がわき上がるのです。そうして私たち弟子たちも、先頭に立つイエスのように、世に勝つことができるのです。

2015/11/22 結婚の日 創世記24:62~67 イサクとリベカ



・結婚の日に
 昨年、結婚の日礼拝でアダムとエバの物語を取り上げました。今回は、イサクとリベカの物語です。今から約4000年の昔の出来事ですが、聖書の物語は現代にも通じる結婚の奥義を示しています。

・イサクとリベカの出会い
 創世記24章はイサクのお嫁さん捜しです。アブラハムの僕が遠い故郷に出かけて、リベカを捜し当てます。彼女は僕の話を聞いて、故郷と家族から離れてイサクがいる遙か南の地方に赴きます。
 彼女らがネゲブ地方にたどり着いたときに「イサクは夕暮れ近く、野に散歩に出かけた」と記されています。その姿は寂しげですが、しかし、彼はそこで神との関係と個を確立していました。それはロンリネスではなく、ソリチュードの姿です。
 この時にリベカもまた自分の判断で故郷を離れた女性でしたから、神との関係で個を確立していた女性であったと言えます。

・結婚の奥義と神秘…ベール
遠くからでしたが、彼らは互いをそれとして見て、また認めています。「そこでリベカはベールを取って身をおおった」とあります。そのベールは彼女が神の選んだ女性であることを示す神秘のベールであり、またイサクが神が選んだ男性であることを覚えるベールと言えます。そのような明確な信仰と召命感によって二人は、結婚の契りを結んだのです。

2015/11/08 子どもとの合同礼拝 「エステルと祈りの手」 エステル記5~10章 



 エステル記は、古代ペルシャ帝国の時代、エステルという女性が神の民を危機から救ったことを描いた物語です。
 前回は、エステルが王女となって王宮に入ったこと、その時にハマンという悪大臣によって神の民を滅ぼし尽くす命令が出されたことが書かれておりました。

エステルと祈りの手
 この危機の時に、エステルは次のように語り、切に祈りました。「私のために断食してください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も…同じように断食しましょう4:16
 神の存在と恵みが感じられないような時代でしたが、エステルと民の祈りは、確かに聞き届けられ、不思議に救済の業が起こってきます。

・救済
 エステルのアハシュエロス王に対する嘆願は聞き届けられ、ハマンの悪が暴かれて彼は自分で用意していた20mもの柱につるされて殺されます。
 他方、ハマンが憎んでいた善人モルデカイは栄誉を与えられます。彼はエステルの叔父でもあったことから帝国の総理大臣にまで任命されます。

2015/11/1 ヨハネ福音書16:13~24 イエスとの再会と喜び



・「しばらくすると…見なく」
 主イエスは弟子たちに対して「しばらくすると…わたしを見なくなります」と語ります。肉的な人間は肉眼で見ることで世界観を造ります。それは肉的だった弟子たちも同様で、目に見える姿と奇跡だけで心の中にイエス像を形成していました。
 しかしながら目に見える世界はイエス像であれ「しばらくすれば…見なくなる」のです。

・「…しばらくすると見る」
 「しかし、しばらくするとわたしを見ます」と続けて語ります。「しばらく」とは、まずは十字架と葬りの期間を意味しますが、それだけではなく弟子たちが感覚的にイエスを見失った苦しみの期間全体を意味します。しかしイエスを見失う苦難の時は「しばらく」にすぎません。かならずその後に「見る」ことになります。
 後の「見る」とは「霊的に見る」という意味で用いられています。つまり、御霊を通して、復活後のイエス、昇天後のイエスを見るということです。御霊はイエスについてだけではなく、イエスご自身を現すからです。

・悲しみが喜びに
 肉的な世界観はやがて破綻し、悲しみと絶望感をもたらします。ただ御霊を通して「霊的にイエスを見る」ことにより、弟子たちは飛躍的に成長を遂げるのです。その際に「しばらくすると」来る悲しみと痛みが、次に「しばらくすると]来る喜びのために準備期間となるのです。

2015/10/25 ヨハネ福音書16:12~15 真理の御霊



・真理の御霊
 御霊のことを「真理の…」と表現されています。「真理」とは、神としての性質を持っているということと共に、忠実、真実という意味があります。つまり私たちの「そばにいて語り(パラクレートス)」、誤ることなく、確実に「真理に導く」霊ということです。

・自分から語るのではなく
 御霊は、何か独自の計画を語ったり、ビジョンを示したりする方ではありません。「自分から語るのではなく、聞くままを話し…」とある通りです。昔から御霊は「父と子から発出する」と言われてきましたが、御霊は父と子の神のものを示す方です。また御霊は、父と子の神を啓示しますが、それ以上でもそれ以下でもありません。

・御霊はイエスの栄光を現す
 「御霊はわたしの栄光をあらわします」とあります。栄光とは神としての姿/性質と御業が顕わにされることを意味します。それは常に輝いており、また勝利したすがたです。
 そこで「わたしの栄光」とは、イエスの姿と御業のこと、またその勝利についてです。

・今も、御霊は…
 私たちは、肉のイエスから2000年が過ぎた時代に生きています。しかし、御霊はイエスのことを忠実に完全に私たちに示してくれます。私たちが聖書に向かうごと、祈るごと、礼拝し賛美するごとに、御霊はイエスとその栄光を鮮明に示します。

2015/10/18 ヨハネ福音書16:1~11 助け主と世 



・イエスが去ることは
 主イエスは「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益」と語っています。それは弟子としての成長のためにプラスとなる、弟子として世に証する際に幸いとなると言う意味です。
 これは逆説的です。目の前にイエスがいることは弟子たちの喜びでした。しかし、彼がいなくなったとき、さらに「益」となるというこです。

・「助け主」
「助け主をあなた方のところに遣わします」とあります。「助け主」とは、御霊のことです。御霊は心の内側にまで入り、心の闇に光を照らすことができる唯一者です。彼は私たちの「心の傍らに」いて「語る」方です。その働きは私たちを真に助け、慰め、励まし、内側から救いを実現します。

・「助け主」と世
 さらに御霊は「罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」。
 世は完全な闇に閉ざされていて、そこに神の光が差し込む余地がないほどです。しかし、御霊は福音を通して世の人の心にも働いて心を照らします。そして罪を認めて悔い改め、イエスのみが救いの道であると知って改心させるのです。
 私たちはキリストの弟子として、この地域で証ししています。それは私たちの力では不可能なことで、ただ御霊の助けなくしては実現されないのです。

2015/10/11 ヨハネ福音書15:18~27 迫害と証



・世が憎むとき
 イエスの弟子は、自分たちは神の子とされているのだから、世の人々は好意を持って受け入れてくれるという錯覚を持ちがちです。しかし現実は、「世があなた方を憎む」とあります。憎むとは、嫌うこと、不快な感情を抱くこと、非難することなどを意味します。
 その時にイエスの弟子は怯むのではなく、むしろ主イエスの道であったと想起して、それでも弟子としての従順を貫くべきです。

・世が憎む理由
 世が「あなたがたを憎む」理由は「あなたがたがこの世のものではない」からです。つまり神の子たちであるから世は憎むということです。そのことから、世は「父(の神)をも憎んでいる」が明らかになります。このようにしてイエスの弟子たちを通して、世が完全に罪に染まっていることが顕わにされます。

・迫害と証
 さらに単に憎むだけではなくイエスの弟子たちを迫害します。それは単に口先で非難するだけではなく、身体的な危害を加えることです。事実、迫害は初代教会でも起こり、そして私たちのキリスト教史でも激しくなされました。
 しかしながら、その迫害の最中に主イエスはみ霊を送り、そのみ霊を通して弟子たちの心を励まします。また迫害者たちの中でも働き、イエスこそ真理という証を際立たせるのです。

2015/10/4 ヨハネ福音書15:16~17 「選びと派遣」



・選びと任命
 キリストは私たちが彼を選んだのではなく彼ご自身が私たちを選んで、弟子としたことを強調します。また「任命」とあるのは、キリストが私たちを弟子としての使命を託しいるということです。
 私たちが自分でキリストを選んで入信し、自分の力で信仰者としての人生を歩もうとすることは、ちょうど自分で小舟を操るようで、不安定になります。しかし、「キリストの選びと任命による」と覚えるときに大船の安定感を持ちます。

・派遣と献身
 「あなたがたが行って実を結び」とあります。私たちは自分勝手に人生を歩み不毛となるということではなく、キリストによって派遣されているということです。さらに、私たちに求められていることは、献身すると言うことです。そのようにして初めて、浮き雲のような人生ではなく、しっかりとした目的を持った信仰生活となり、そこに祝福の業が起こるのです。それは信仰生活の喜びとなります。

・実を結び
 私たちの祝福は「実を結ぶ」という形で約束されています。その実とは、私たちが派遣されたその所で、様々な人間関係を持ち、そのようにして御霊の実を獲得すること、そして、同じ救いに導かれる人々を獲得すると言うことです。その実こそ、地上のどのような富にまさって、有益で、永遠に残る実となります。