2014/5/25 ヨハネ福音書7:1~9 イエスの時



・仮庵の祭り
 仮庵の祭りのとき、兄弟たちは、主イエスに対して、隠れていないで公に姿を現すように促します。彼らは、神から遣わされたと主張する者が、隠れているというのは、似つかわしくないと考えたのです。彼らは、主イエスの働きのあり方には、公に現れるという側面と、隠れているという側面の二つがあるということを理解していなかったのです。

・あなたがたの時はいつでも
 「あなたがた」とは兄弟たちのこと、「時」とは好機という意味です。そこで「あなたがたの時はいつも来ています」とは、「あなたがた」は世に迎合し、その思いは世そのものでした。それゆえ、彼らがなそうとすること、いつでも世に受け入れられるということです。しかし世の流れは罪を増し加えて染まり、やがて廃れます。
・主イエスの時
 「わたしの時」とは、主イエスの時のことです。それは神によって定められている好機で、普段は、神の御業は隠れた状態ですが、その好機には公然なり、すばらしい御業が実現します。主イエスの十字架の御業、聖霊降臨をはじめ、すべての御業がそうです。それは廃れることはなく、その一回の出来事であったとしても、人々に対して決定的な影響を与えるのです。

・イエスの時はまだ
 私たちの信仰生活において、しばしば祈りが答えられない「イエスの時はまだ」の状態が訪れます。しかし「…まだ」というのは、「やがて来る」と言う事であって、ちょうど良い時に「イエスの時」は、私たちの生活に訪れます。それは私たちにとって大きな恵みの体験となり、その後の人生に決定的な影響を与えることになるのです。

2014/5/18 ヨハネ福音書6:60~71 生命のことば



・「ひどいことば」?
 主イエスのことばに対して、弟子たちのうちの多くも「ひどいことばだ」と言って躓きました。彼らは主イエスのことばを、文字通り、地上の生命について語られた言葉と解したからです。しかし主イエスは、地上の領域を超えた世界について語っていたのです。

御霊であって、肉ではない
 「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。」
 主イエスは弟子たちに「永遠のいのち」を与えようとしておられました。それは、神の生命であって決して地上の物を通して与えることはできません。ただ、神の事柄は神の手段によるのではければ与えることはできません。それが霊です。

・生命のことば
 「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、いのち」とあります。イエスのことばは、人間のことばと異なり、単なる伝達手段ではありません。そのことば自体が、神の霊であり、神のいのちです。
・みことばを信じる
 神の霊といのちを獲得する手段は、特別な努力体験をする必要はなく、ただイエスのことがを信じ、受け入れることだけでいいのです。ペテロは、その模範的な信仰を告白しています。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」

2014/5/11 1サムエル1:1~11 ハンナの祈り



・ハンナとペニンナ
 今から、3000年前の旧約聖書の物語です。エルカナには2人の妻があり、一人はハンナ、一人はペニンナと言う名でした。ハンナには子供がなく、ペニンナには何人かの子供がいました。ペニンナは子供のない事でハンナを苛立たせました。夫エルカナはハンナを愛していたので慰めますが、ハンナの悲しみと心の痛みは決して人によって癒されることはありませんでした。

・ハンナの祈り
 あるときもペニンナのいじめがひどく、耐え切れずにハンナは神の前に、激しく泣きなら祈りました。それまでも祈ることがあったのですが、その時には、特に心を注ぎ出して祈り、しかも神に対して誓願を立てました。「主よ。もし、あなたが…このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。」と。ハンナの祈りは、主なる神に聞き届けられ、彼女は1人の男子を授かり、その子は、混迷の時代に、民を導く預言者となりました。

・痛みと祈り
 人には色々な心の痛みがありますが、中には神によってでなければ、慰められることがない痛みがあります。その時に、人間的慰めを求めたり、自分で悩んだりするのではなく、神の前に心注いて祈ることが大切です。また神ご自身も、私たちが祈りを通してご自身の御前に出ることを願っておられるのです。

2014/5/4 ヨハネ福音書6:51~59 主イエスの肉と血



・躓き
 「わたしが与えようとするパンは…わたしの肉」という言葉に、ユダヤ人たちは躓きます。彼らは主イエスが語る言葉の霊的な意味についてまったく分からないのです。
 しかし、目に見えない真理について主イエスは「たとえ」を用いてしか語ることができないのです。

・人の子の肉を食べ、血を飲むとは
 「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければとは、主イエスの十字架の犠牲によって差しだされた生命を受け取ることで、永遠のいのちが獲得されるという意味です。「肉を食べ」「血を飲む」とは、そこで完全な生命が提供されることを意味します。従って、それを受け取る者もまた、その食べ物を第1の食物とすることになるのです。

わたしの内に、彼の内に
 「わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちに 」とは、キリストが与える生命とは、どのようなものであるかを示します。それはキリストと「私」との、神秘的な結合を通して与えられる生命であるということです。 

・贖いを体得する
 私たち信仰者は、継続的に「キリストの肉を食べ、血を飲む」ということを通して、ますますキリストの贖いの尊さを覚えることになります。同時に、私たちもその贖いの愛に対して、自発的に応答する者とされていくのです。

2014/4/27 ヨハネ福音書6:41~51 父の招き



・つぶやきと限界
 ユダヤ人たちは「天から下ってきた」という主イエスの言葉に躓き呟きます。彼らは肉的で地上のことだけにしか、心が向けられていなかったからです。
 これは、ユダヤ人だけではなくすべての人間がおかれている限界です。私たちは生まれながら目で見、耳で聞いたことだけしか信頼しません。大人になるに従って経験が蓄積され、地上のことしか受け入れない体質が身についているのです。

・父の招き
 しかし人間にはできないことを神はしてくださいます。つまり、人間からは父の神も主イエスの真理も知ることはできませんが、父の神の方から「引き寄せる」ことによって、父を知るものとされていきます。つまり聖霊によって心が照らされて、イエスが神の子キリストであることが顕わにされるのです。
 
・終わりの日の甦り
わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます」とあります。私たちは地上においてキリストを通して神を知らされ、永遠のいのちの種を得ます。そして「終わりの日」に新しい体の甦りという実を得るのです。私たちはこの最終目的に向かって、地上の生涯を生きていきます。

・私たちも自発的に
 私たちは「父が引き寄せて」くださるということを覚えて、怠惰になるのではなく、むしろその愛を覚えて、私たちも「神とキリストを知ろう」応答していくことが大切です。