・信仰の弱い人、強い人
同じ主イエスを信じていても、信仰の強い人と弱い人は存在します。また「それぞれ」にはそれぞれの信仰姿勢があります。何を食べるか食べないかでも異なります。
しかしその些細なことが、大きな問題になってしまうことがあります。強い人が弱い人に対して自分の信仰を強要したり、また反対に弱い人が強い人を裁いたりするのです。
・信仰の弱い人を受け入れる
私たちが兄弟の信仰を侮るとき、私たちは自分の分を超えているものです。その兄弟の主人はイエス・キリストご自身であって「あなた」ではないのです。
また主イエス・キリストは「あなた」が弱いと思っているその人を支えておられ、確実に立た、成長させることができるのです。
・それぞれの信仰の自由が大切
食べるだけではなく、信仰生活全般において 大切なことはそれぞれが主の前に確信をもって判断することです。人の言葉を恐れる必要はないのです。それぞれが、主イエスから直々の信仰の自由をいただいているのです。
また弱い信仰の人であっても神の恵みの中で、「主イエスのため」に存在し生きる者とされています。それは尊いものなので、その信仰に干渉することは極力さけるべきです。
主イエスは私たちが自由を持ち、ただ主イエスのために生き、死めものとなるために、死んで生きて下さつたからです。
2012/3/18 ローマ13:11~14 キリストを着る
・今という時を知る
聖書には、一つの歴史観があります。それは将来に救いが完成するイエスの再臨の日があるということです。教会は、その「日」を目ざしながら地上に存在しています。 再臨の時は、いつか分かりませんが勢いよく接近しています。私たちは、「今」の意味を覚えて、生活スタイルの転換が求められています。
・光の武具を身に付けるとき
「やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか」 「やみのわざ」とは、この地上の様々な欲や快楽や汚れた業のことです。地上に執着しているときに、これらの虜になります。救いにはいるためには、まずその一つ一つを捨てることが大切です。そして、「光の武具」を装着するのです。これはやがて到来する神の国にふさわしい装着物です。つまり神の聖さと神が喜ばれる生活スタイルを身に付けることです。
・キリストを着る
「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」 「キリストに従う」「キリストに学ぶ」という勧めよりも、より徹底しています。役者が役作りのために、原作を読み解釈し、試行錯誤して主人公になりきる場合があります。ちょうどそのように、私たちはキリストの言葉から学び、解釈し、黙想し、祈り、試行錯誤して、キリストの生き方、生活スタイル、人との関わり方、心と思いを自分のものとしていくようにということです。
聖書には、一つの歴史観があります。それは将来に救いが完成するイエスの再臨の日があるということです。教会は、その「日」を目ざしながら地上に存在しています。 再臨の時は、いつか分かりませんが勢いよく接近しています。私たちは、「今」の意味を覚えて、生活スタイルの転換が求められています。
・光の武具を身に付けるとき
「やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか」 「やみのわざ」とは、この地上の様々な欲や快楽や汚れた業のことです。地上に執着しているときに、これらの虜になります。救いにはいるためには、まずその一つ一つを捨てることが大切です。そして、「光の武具」を装着するのです。これはやがて到来する神の国にふさわしい装着物です。つまり神の聖さと神が喜ばれる生活スタイルを身に付けることです。
・キリストを着る
「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」 「キリストに従う」「キリストに学ぶ」という勧めよりも、より徹底しています。役者が役作りのために、原作を読み解釈し、試行錯誤して主人公になりきる場合があります。ちょうどそのように、私たちはキリストの言葉から学び、解釈し、黙想し、祈り、試行錯誤して、キリストの生き方、生活スタイル、人との関わり方、心と思いを自分のものとしていくようにということです。
2012/3/11 ローマ13:8~10 愛は律法を全うする
・キリスト者の社会倫理
キリスト者の社会倫理は、かつての律法のように、細々とした形だけの規定ではありません。むしろ状況倫理であり、基本的な心構えでもって様々な状況に対処します。その第1に「何の借りもあってはいけません」です。「借り」とは、「負い目」ということで、金銭を借りるということだけではなく、様々な害や迷惑を与えて負い目を持つということをも意味します。そのようにして、良い市民として振る舞うのです。
・愛の負い目を持つ
第2は、「愛の負い目」を持つことです。キリストが私たちを愛してくださったように、私たちは先に隣人を愛する姿勢を持つと言うことです。愛とは、隣人を助け、癒し、建て上げる愛で、すべて隣人の益となることをなし、幸せを願うことです。この時に、世に氾濫している自分本位の愛と混同してはなりません。
・愛は律法を全うする
旧約時代の律法の根本精神は愛でした。そして「愛は律法を全うする」のです。愛はまた、人間社会にあるすべての道徳規範の根本精神です。私たちはキリストから神の愛を学び、教会において愛の訓練を受け、さらに世において真実の愛を行使して生きるのです。 世の道徳規範は形骸化したり、希薄化してしまうのが実情です。世の人々も、キリスト者の真実な愛と愛に基づく行動を期待しているのです。
キリスト者の社会倫理は、かつての律法のように、細々とした形だけの規定ではありません。むしろ状況倫理であり、基本的な心構えでもって様々な状況に対処します。その第1に「何の借りもあってはいけません」です。「借り」とは、「負い目」ということで、金銭を借りるということだけではなく、様々な害や迷惑を与えて負い目を持つということをも意味します。そのようにして、良い市民として振る舞うのです。
・愛の負い目を持つ
第2は、「愛の負い目」を持つことです。キリストが私たちを愛してくださったように、私たちは先に隣人を愛する姿勢を持つと言うことです。愛とは、隣人を助け、癒し、建て上げる愛で、すべて隣人の益となることをなし、幸せを願うことです。この時に、世に氾濫している自分本位の愛と混同してはなりません。
・愛は律法を全うする
旧約時代の律法の根本精神は愛でした。そして「愛は律法を全うする」のです。愛はまた、人間社会にあるすべての道徳規範の根本精神です。私たちはキリストから神の愛を学び、教会において愛の訓練を受け、さらに世において真実の愛を行使して生きるのです。 世の道徳規範は形骸化したり、希薄化してしまうのが実情です。世の人々も、キリスト者の真実な愛と愛に基づく行動を期待しているのです。
2012/3/4 ローマ13:1~7 上に立つ権威
・上に立つ権威
ここで「上に立つ権威」とは、国の政治システムのことを意味します。私たちの国では、国民の総意として法と政治システムが存在します。それもまた私たちの「上に立つ権威」です。 それは異教徒が携わっている場合が多いのですが、「神によらない権威はなく」、すべて「神によって立てられたものです」。それ故、教会はそれらを重んじます。神は教会の主ですが、また世界の支配者であり、彼らを通して世を支配しておられます。
・「神のしもべ」であるから従う
国家の政治システムと法に仕える人々は「神のしもべ」であり、その働きは基本的に「神のしもべ」としての働きです。私たちは彼らを重んじるべきです。 彼らはまた、私たちに益を与えるための「神のしもべ」であり、私たちが地上の生涯を平安で敬虔に過ごすことために奉仕しているのです。ですから、「良心のために」進んで従うべきです。
・国家と為政者のために祈る
しかしながら、国家には悪が潜んでいることも覚えておくべきです。ヨハネ黙示録に描かれているように、時に国家が悪魔的獣に支配され、私たちの信仰の世界に土足で踏み込んでくることがあります。その時には、神とキリストに対して「死に到るまで忠実」が私たちの姿勢です。しかしそうならないように、国家と為政者のために祈る必要があります。
ここで「上に立つ権威」とは、国の政治システムのことを意味します。私たちの国では、国民の総意として法と政治システムが存在します。それもまた私たちの「上に立つ権威」です。 それは異教徒が携わっている場合が多いのですが、「神によらない権威はなく」、すべて「神によって立てられたものです」。それ故、教会はそれらを重んじます。神は教会の主ですが、また世界の支配者であり、彼らを通して世を支配しておられます。
・「神のしもべ」であるから従う
国家の政治システムと法に仕える人々は「神のしもべ」であり、その働きは基本的に「神のしもべ」としての働きです。私たちは彼らを重んじるべきです。 彼らはまた、私たちに益を与えるための「神のしもべ」であり、私たちが地上の生涯を平安で敬虔に過ごすことために奉仕しているのです。ですから、「良心のために」進んで従うべきです。
・国家と為政者のために祈る
しかしながら、国家には悪が潜んでいることも覚えておくべきです。ヨハネ黙示録に描かれているように、時に国家が悪魔的獣に支配され、私たちの信仰の世界に土足で踏み込んでくることがあります。その時には、神とキリストに対して「死に到るまで忠実」が私たちの姿勢です。しかしそうならないように、国家と為政者のために祈る必要があります。
2012/2/26 ローマ12:17~21 悪に対する処方箋
・悪に対する処方箋・・悪を報いず
私たちは地上で生活する限り悪との遭遇があります。その際に、私たち自身は自分のうちから出てくる悪にもサラされます。そこで「悪に悪を報いることをせず」の態度が肝要です。 また善と平和の民にふさわしい対応が必要です。「すべての人が良いと思うことを図ること」「すべての人と平和を保つこと」です。
・復讐してはならない
「復讐」とは、昔は悪に遭遇した際の正義の手段でした。異教徒間でも律法でも、その規定があります。しかしキリストの民は、それを放棄します。「自分で復讐してはいけない」のです。キリストがそうであったように、キリスト者は神の復讐をではなく平和の大使です。どのような時にも神の平和を証しします。 悪は神に対する反逆ですから「神の怒りにまかせる」のです。正義の神は悪をいつまでも野放しにされることはありません。
・善をもって悪に打ち勝つ
私たち自身の悪に対する対応としては「善をもって悪に打ち勝つ」以外の方法はありません。「敵が飢えたら食べさせ」「渇いたなら、飲ませる」のです。このような対応から、悪の権化も神のものとされる場合も起こってきます。初代教会もそうでしたし、後の福音宣教もこの方法で進展してきました。 キリストを土台として建てられる教会は平和の都そのものであり、神御自身が守られる場所です。
私たちは地上で生活する限り悪との遭遇があります。その際に、私たち自身は自分のうちから出てくる悪にもサラされます。そこで「悪に悪を報いることをせず」の態度が肝要です。 また善と平和の民にふさわしい対応が必要です。「すべての人が良いと思うことを図ること」「すべての人と平和を保つこと」です。
・復讐してはならない
「復讐」とは、昔は悪に遭遇した際の正義の手段でした。異教徒間でも律法でも、その規定があります。しかしキリストの民は、それを放棄します。「自分で復讐してはいけない」のです。キリストがそうであったように、キリスト者は神の復讐をではなく平和の大使です。どのような時にも神の平和を証しします。 悪は神に対する反逆ですから「神の怒りにまかせる」のです。正義の神は悪をいつまでも野放しにされることはありません。
・善をもって悪に打ち勝つ
私たち自身の悪に対する対応としては「善をもって悪に打ち勝つ」以外の方法はありません。「敵が飢えたら食べさせ」「渇いたなら、飲ませる」のです。このような対応から、悪の権化も神のものとされる場合も起こってきます。初代教会もそうでしたし、後の福音宣教もこの方法で進展してきました。 キリストを土台として建てられる教会は平和の都そのものであり、神御自身が守られる場所です。
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