2023/4/23 Ⅰコリント7:25~35 「有は無」とする信仰

・そのままの状態
 パウロはコリント教会の生活全般に対する質問に対して、基本的原則を持って答えています。「処女」とは許嫁状態の女性のことで、その結婚云々についてです。「現在の危急のとき」とは再臨の差し迫っている時ということで、この「現在」は「そのままの状態」がいいと勧めています。世の時は過ぎ去り、再臨前の苦難があるからです。そこで一般の男女であれ、「処女」であれ、そのままの状態がいいと勧めています。しかし独身のものが「結婚したからといって、罪を犯すのではありません」と語っています。

・「有は無」とする姿勢
 「ときは縮まって」とは、再臨の時がより近くなっている」ということです。ここに、この世を漫然と過ごすのではなく、終わりの日の再臨を切迫感を持って待望する姿勢の大切さを示しています。その未来展望をとおして現在の適切な生活姿勢が導き出されます。つまり「妻のある者は、妻のない者のように…喜ぶ者は喜ばない者のように…世の富を用いる者は用いすぎないように」です。「この世の有様は過ぎ去るからです。」日本的にいえば、「有は無」とする姿勢です。

・思い煩わないため
 以上の姿勢は、世の実際生活で「思い煩わない」ために益となります。つまり、人の苦しみは世に執着し、「ああでもない、こうでもない」と思い煩うことから発生します。しかし再臨信仰を通して有は無」と達観することで、煩いはなくなるからです。

2023/4/16 Ⅰコリント7:8~16 キリスト者の結婚観

・独身と結婚
 パウロは、まず独身の勧めをしています。世に囚われず、神奉仕、御国待望には「良い」としています。
 「しかし、もし自制することができなければ、結婚しなさい」とあります。性的情欲は不品行に向かわせる危険があります。それを避けるために結婚は神によってもうけられた恵みの手段です。それもまた神の前に「よい」「聖い」ものです。

・離婚いけません…相手信者
 信者同士に対して「妻は夫と別れてはいけません」「夫は妻と離別してはいけません」と命令します。時代時代に、様々な離婚の理由が主張されることがありますが、どのような理由であれ、信者どうしの離婚は禁じられています。結婚自体が「よい」「聖い」あり方だからです。
「別れたのだったら、結婚せずにいるか…和解」とあります。新たな結婚のための離婚は、姦淫とされています。それで「結婚せずに」とあります。「和解」はいつでも「よい」関係の再構築となります。

・離婚いけません…相手が未信者
 未信者の伴侶が「承知している場合は、離婚してはいけません」とあります。その理由として「信者でない夫(妻)は妻(夫)によって聖められて」とあります。キリスト信仰による聖めとは、外にも広がり、信仰者の家庭全体に及ぶのです。
「離れていくのであれば、離れて行かせなさい」とあります。伴侶がキリスト教信仰を嫌って離婚しようした場合のことです。キリスト者は元々、信仰によって神の前に自由にされているのですから、その場合は「そのまま」の状態で「平和」に神に仕えるよう勧めています。
 

2023/4/9 ルカ福音書24:13~35 エマオへの途上

 ・エマオへの途上
 安息日の翌朝、ふたりの弟子がエルサレムからエマオという村に行く途中のことでした。彼らは失望しながらも「いっさいの出来事について話し合って」いました。そこに復活のイエスが近づいたのですが、彼らの目は「さえぎられていて」イエスと認めることができませんでした。復活のイエスは、不信仰の者には決して見ることができないからです。

・聖書からの説き明かし
 主イエスは彼らの不信仰を叱責した後「聖書全体」から「キリストは…苦しみを受けて彼の栄光にはいる」ことを「説き明か」しました。「説き明かす」ことによってのみ、神の不思議とキリストの救いが顕にされるのです。
 彼らは、旅路の「説き明かし」を通して復活信仰を持つようになっていました。それで故郷の村についたときに「無理に願って」イエスを家に招き入れました。

・心はうちに燃えて
「パンを取って祝福し…彼らの目が開かれ、イエスだとわかった」とあります。信仰による愛餐の交わり(聖餐)の中で、復活のイエスの臨在が明らかにされたのです。それと同時にイエスは見えなくなりましたが、かえって彼らは、イエスの御霊の臨在を確信しています。
「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」とあります。私たちの場合も、このことは全く同じです。教会における、十字架と復活のイエスを中心とする聖書の説き明かしと聖餐の交わりの中に、イエスの御霊が臨在して私たちの心を燃やすのです。

2023/4/02 ルカ福音書23:44~56 イエスの死と葬り

 ・イエスの死
 主イエスの十字架の時「全地が暗くなって」とあります。世の終わりに現れる神の怒りが、イエスにくだされたことを象徴し、「神殿の幕は真二つに裂けた」のは旧約時代の終わりを暗示します。「わが霊を御手にゆだねます」とのイエスの最後の言葉は、詩篇31:5の成就で、正しい者の死を意味します。イエスは正しい者の死を全うして贖いをなし、古い契約を終わらせ、新しい契約を成就させました。

・百人隊長の証言
 百人隊長は「この人は正しい方」と証言しています。彼は十字架のイエスの一切の振る舞いから、神の子としての正しさを告白せざるを得なかったのです。これはルカ福音書ではイエスが「罪がない」「正しい」という7回目の証言となっています。まさにパーフェクトな正しさを示しています。

・主イエスの葬り
 アリマタヤのヨセフはピラトに願い出て「イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた」とあります。彼は議員のひとりで、イエスを支持し、神の国を待望していた人物でしたが、このように最後に彼の信仰を証しました。また彼はイエスの葬りを通して、イエスの死をしっかりと受け止めたのでした.
  彼の態度は、私たちも見習うべきです。つまり、この受難週に、私たちもイエスの死とその意味をしっかりと受け止めたいです。そしてどうして、「正しい」方が死ななければならなかったかを、深く思い巡らしましょう。