「書かれていることを越えない」
「書かれていること」とは、聖書のことで、いわゆる「十字架のことば」です。「越えない」とは、それが神の言葉であることを覚えて、恐れと愛を持って受け止め、人間の知恵や考えを加えて、逸脱しないということです。
「一方にくみし、他方に反対して高慢にならない」とは、党派を作って互いに対立する誤りです。党派心は、いつでも人間的な高ぶりが伴い、しかもエスカレートします。私たちは、その点をチェックして、高慢に陥らないように心がけなければなりません。
・高慢な王様
コリント教会の人々は、これらの逸脱がありました。自分で自分をすぐれた者とし、全て自分の能力で獲得したかのように誇り、王様のようになっていたのです。その態度は、誰でもかまわず裁くという態度でした。この「高慢な王様」の態度は、コリント教会だけでも、どこの教会でも起こりうる悪です。
・仕える王様
コリント教会の高慢はギリシャの知恵と文化の影響を受けた根深いものでした。そこで使徒は自分たちの実態を示しながら、「十字架のことば」としての福音に従う者のあり方を示しています。
「死罪に決まった者…」「私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません」。どれもキリストにならって「十字架を負う」姿勢です。
2023/1/29 Ⅰコリント4:6~13 仕える王様
2023/1/22 Ⅰコリント4:1~5 人間の日と主の日
・キリストのしもべ
使徒パウロは、教会における働き人としての自分たちの立場について「キリスト・イエスのしもべ、また神の奥義の管理者」と語ります。ただキリストを主人として従い、その主権のもとで、働く者ということです。 そこで大切な点は、不特定の誰かではなく、主人であるキリストに対して忠実であるかが大切であるとしています。
・人間の判定(日)は小さなこと
教会の働き人は、教会の人々による様々な判定をうけます。「人間による判定(日)」です。私たちは、毎日、人間の目と言葉によって何らかの審判を受けながら働き、生活するのです。
あるいは自分で自分を評価して裁く場合もありますが、しかしそれは「非常に小さなことです」とあります。パウロが、様々な人間の判定や評価によって煩わされないのは、絶対的な軸をもっていたからです。
・「主の日」に委ねる
「主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかに」と「主の日」の審判について記しています。「主の日」のみが、パウロの判定の絶対的な軸でした。そして「未来の審判」に備えて、「今の日」の働きと生活を営んでいました。
この使徒の信仰姿勢は、すべてのキリスト者にとっても、まったく同じであるべきです。
2023/1/15 Ⅰコリント4:1~6 ただキリストのもの
・世の知恵は愚か
使徒は、繰り返し、世の知恵と世にとらわれることの愚かさについて、指摘し、諌めています。世の知恵は、人間の目には賢く、偉大のように見えて、神の前では、まったく愚かで、悪巧みに過ぎないからです。「神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕える」 とヨブ記や詩篇にもあるとおりです。
・すべてはあなたがたのもの
使徒は、キリスト者とは、世と世の知恵に従属するような小さい存在ではなく、神の子として、大きな存在であることを示しています。
「パウロであれ、アポロであれ…すべてあなたがたのもの」とは、そのことです。この認識は、ただ神の知恵のみが明らかにすることであって、それはキリスト者の自由です。
・ただキリストのもの
そして「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のもの」とあります。 キリストによる自由は、何のためかについて明確です。それはただキリストだけを礼拝し、キリストだけに仕えるためです。そしてまた、世の一切から自由にされて礼拝する姿が、そのまま父の神の栄光となるのです。
私たちの福音自由教会の「自由」もそのような意味が込められています。世の力と知恵と情報が圧倒的な時代ですが、世の力に左右されず、ただキリストを礼拝する自由なる神の子たち、神の群れとして、自覚を持ち、整えられていきたいです。
2023/1/8 詩篇23篇 主は私の羊飼い
・主は私の羊飼い
詩人は、神である主と自分との関係を羊飼いと羊にたとえています。羊飼いは、自分の羊を愛と誠意をもって全面的に守り、養い、育みます。羊は、自分の羊飼いを、やはり全面的に信頼して、従うのです。「私は、乏しいことはありません」とはその告白です。
・主は私を緑の牧場に
「私を緑の牧場に伏させ…いこいの水のほとりに伴われ」とは、新鮮な牧草地でくつろぎ、少しの渇きを覚えたときでも安全に水場に導かれるというふうに、主に信頼する喜びと幸いを告白しています。これは単に霊的にというだけではなく、生活全体における幸せの約束です。
「死の陰の谷」とは、人生最大の危機です。世の人々は、恐れと不安にとらわれる時ですが、主の羊、神の民にとって何の恐れもありません。全能者である「あなたが」「私とともにおられる」からです。
・ いつくしみと恵み
「いつくしみ」とは「良いこと」「幸い」ということで、「恵み」とは、旧約のキーワード「ヘセド」です。主なる神は、聖書全体を通して、ご自身を「いつくしみとめぐみ」の神として啓示しておられます。
私たちは、新年初頭にあたって、「主の羊」として、詩人とともに、「私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追ってくる」と信じ、告白しましょう。
2023/1/1 詩篇84:1~12 千日にまさる一日
・主の大庭を慕う
詩人は主なる神の住まいである神殿を慕い、その大庭を「恋い慕う」と告白しています。そこは神の臨在の場であるからです。また「生ける神に喜びの歌」とあります。神のうちにこそ喜びがあり、永遠の生命が宿っているからです。
「雀さえも、住み家」「つばめも…祭壇」とありますが、生きとし生けるものは、すべて神のもとでのみ安らぎと生命を育みます。
・心の中にシオンへの大路
「なんと幸い…の心の中にシオンへの大路のある人」とは、第1に巡礼者たちのことを意味しますが、さらに霊的には、しっかりと神礼拝に心を向ける信仰者のことです。彼らこそ、誰よりも勝って「幸い」な人々です。彼らのことを神ご自身も覚えておられて「涙の谷を…泉のわく所」とし、ついにはご自身の御元にまで安全に導かれるからです。
・千日にまさる一日
「あなたの大庭にいる一日は千日にまさり」と神礼拝の素晴らしさと貴重さを告白しています。「千日」とは「世の楽しみの千日」ということです。そこが世である限り、いかに楽しく、貴重のようでも、廃れ、過ぎ去る千日です。しかし神との一日は永遠の時と価値があります。
元旦の朝、共に神の御元に礼拝する幸いと、その永遠の価値をおぼえましょう。