・主の祈り
主イエスは弟子の求めに応じて「主の祈り」を教えました。その祈りは短いのですが、祈りの全体と本質を示すものです。
「父よ」という呼び掛けで、祈りが始まります。弟子たちはキリストによって神の子としての立場が与えられているという前提のもと祈りが始まります。つまり祈りは、私たちが、神の子たちと自覚し、実際に神との交わりを持ち、その生命に生かされる手段ということです。
・御名と御国
「御名があがめられますように」とは神が、真実の神が神として明らかにされ、聖別され、礼拝されるようにという祈りです。「御国が来ますように」とあります。御国は世の終わりに完全な形で到来しますが、神の子たちは地上に執着することなく、救いの完成となる神の国を待望します。また、先取りした形で今の時代にも神の国が現れることを求める祈りです。
・糧、罪の赦し、試みの守り
前半は神との関係、後半は私たち自身についての祈りです。その内容は日ごとの糧、罪の赦し、試みからの守りです。その場合も、神に全面的に頼り、依存することの告白と求めです。そのようにして、私たちが地上にあって、自ら誇ることなく、ただ神の恵みに生きる神の子たちであることを自覚し、また証しするのです。
2021/4/25 ルカ福音書11:1~4 主の祈り
2021/4/18 ルカ福音書10:38~42 マルタとマリヤ
・マルタとマリヤ
「イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした 」とあります。マルタは善良な人でイエス一行を歓迎し、もてなしに奔走したのです。ところが妹マリヤは「主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」とあります。当時、女性が男性の弟子たちの位置にいることは、非常識と思われる態度でした。
・マルタ、マルタ
「マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず」、主イエスのもとに来て、妹マリヤの態度を非難し「私の手伝いをするように」と催促しています。当時、それは社会的にも常識な意見でした。
しかし主イエスは「マルタ、マルタ。あなたは…」とマルタの方をたしなめています。それは彼女の方が、神の前で逸脱した状態にあったからです。
・マリヤは良いほうを
「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだ」とあります。マリヤが選んだ「一つ」の「良いほう」とは「主の足もとにすわって、みことばに聞き入ること」でした。それは主イエスによって保証された権利であり、大切なことです。
私たちは生まれながらマルタ的体質を持ちますが、キリスト信仰によって霊的「内なるマリヤ」が新しく生まれています。私たちは日常の忙しさの中にある時、いつでもマリヤの信仰姿勢に立ち戻るべきです。
2021/4/11 ルカ福音書10:25~37 良きサマリヤ人のたとえ
・隣人とは
あり律法学者が主イエスに「永遠のいのち」獲得の手段について尋ねた時、主イエスは彼の偽善を見抜いて、律法つまり「神と隣人を愛せよ」という命令を実行するように命令します。しかし彼は自分の正しさを示そうとして「私の隣人とは誰ですか」と問います。
・良きサマリヤ人のたとえ
そこで主イエスは良きサマリヤ人の例えを語ります。つまり、ある人が強盗に襲われて半殺しにされて倒れていた時に、誰が彼を愛して助けたかという話です。祭司もレビ人もそこを通り、その人を見たのですが、彼らは見て見ぬふりをして通り過ぎます。しかし「あるサマリヤ人」は「彼を見てかわいそうに思い」、回復するまで徹底した介抱をしました。祭司とレビ人の姿は、律法主義で義人を装っているユダヤ人のすがたであり、そこには愛も生命もないことが暴かれています。「サマリヤ人」とは、イエスご自身を暗示しています。愛と生命は律法の枠外から到来するのです。そしてすべての人は、霊的にはむしろ、半殺し状態の存在なのです。
・良きサマリヤ人…イエス
私たちの場合も、まず自分は霊的には半殺し状態の存在であることを素直に認める必要があります。そして良きサマリヤ人であるイエスの愛と救いを受けて癒やされ、新しい生命を獲得することが大切です。その後に、彼にならって「同じように」することができるのです。
2021/4/4 ヨハネ福音書20:24~29 見ずに信じる者は幸い
・トマス
主イエス復活の証言を聞いた時、トマスは「手に釘の跡を見…手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と主イエスの復活に対して懐疑的でした。彼は目に見えるものに対してはよく反応する人間でしたが、目に見えない世界についてはまったく、懐疑的な人間でした。
・「私の主。私の神。」
その八日後に、復活のイエスは再び、弟子たちの中に現れ、今度はトマスに向かって「指をここに…手を…わきに」と語られます。この時に、トマスは「私の主。私の神。」と応答して信仰告白を新たにします。「主」とはただ先生ということではなく、死から復活した絶対的主ということです。「神」とは、無から有をも創造する方ということです。しかも「私の…」と徹底した個人の信仰告白をしています。
・「見ずに信じる者は幸い」
「…見ずに信じる者は幸いです」とあります。かつてのトマスの世界観は目に見える世界だけでしたが、その結末は絶望的な暗さでした。しかし復活信仰によって招き入れられた世界は、目に見えない神の世界であり、そこは永遠の生命と喜びの世界です。この新たな領域は「見ずに信じる」信仰によってのみ啓かれていく「幸い」な世界です。