2021/3/28受難週 ヨハネ福音書19:1~16 「この人を見よ」

 ・いばらの冠と紫の衣
 ローマ総督ピラトはイエスが無罪であることを知って、赦免しようとします。しかしユダヤ人たちはイエスではなく強盗バラバの釈放を求めました。さらにユダヤ人を懐柔しようとして、イエスをむち打ちにし、いばらの冠と紫の衣で愚弄し、「さあ、この人です」と言って、彼らの前に立たせました。
 
・「十字架につけろ…」
 ところがユダヤ人たちは「十字架に付けろ、十字架に付けろ」と激しく叫んだとあります。十字架はローマの極刑であり、律法でも最悪の処罰です。主イエスは正しいとピラトによっても証言されていたのに、彼らは頑なまでもイエスを憎んで、拒絶し、酷たらしい死を望んだのです。

・「この人を見よ」
 ユダヤ人たちは、律法によって自分を義とする人々ですが、このようにして最も罪深い状態であったことを顕にしました。それはユダヤ人だけではなく、誰でも自分を義とする人間の実体です。
 それに対して、イエスは十字架の苦難の中で、ご自分の正しさと聖さをより際立たせ、その意味で神の子であることを顕にしました。さらには、自分の罪を認識する者にとっては「癒やしの神」「贖いの神」であることを顕にしたのです。

2021/3/21 ルカ福音書10:21~24 イエスを見る目は幸い

 ・幼子たちに現された奥義
 主イエスは「喜びにあふれて」神をほめたたえています。それは神が福音の奥義を「賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださった」からでした。「賢い者や知恵のある者」とは世の知恵と権力を持ち、世の名誉に執着している人々のことです。「幼子たち」とは世の中で小さく弱くまた貧しい者たちのことです。彼らは世に執着せず心が開かれており、神も彼らに福音の奥義を啓示されるのです。

・ 父と子の交わりに
 「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されて」とありますが、それは主イエスが神の力と権威と知恵を一身にうけた神の子であることを示します。また「子がだれであるか…父がだれであるか」とは父と子の神の間の密接な愛の交わりを意味します。さらにその交わりは「子が父を知らせようと心に定めた人たち」である弟子たちも提供されています。

・ イエスを見る目は幸い
「あなたがたの見ていることを見る目は幸い」とあります。主イエスが選び、霊的に開いた弟子たちの目ということです。その目をとおして、弟子たちは父と子の交わりに深く招かれていくのです。
 私たちもまた、主イエスによって選ばれて教会に導かれ、福音を見聞きすることが許されています。そこで、さらに福音の奥義を理解し、父と子の愛と永遠の交わりに加えられていくために、イエスを見る目、福音を聞く耳をしっかりと開くようにいたしましょう。

2021/3/14 ルカ10:17~20 天の国籍を喜ぶ

 ・七十人の帰還と喜び
 主イエスによって派遣されていた七十人の弟子たちは、喜んで帰還し「御名を使うと悪霊どもでさえ…服従」すると宣教成果を報告しています。イエスの御名は単なる記号ではなく、力と権威が伴う「名」であることを明らかにしています。

・サタンが天から落ち
 主イエスご自身も弟子たちの成果を裏付けて「サタンが、いなずまのように天から落ち」、「あなたがたに…敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた」と語っております。 福音宣教とともに神の国が地上に到来して、サタンの王国がどんどんと打ち破られていくことを示し、また保証しております。
・天の国籍を喜ぶ
 しかし主イエスは弟子たちに対して彼らの本分が地上の働きではなく、天にあることを覚えるように次のように警告も与えています。「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」

・成果(doing)よりも存在(being)
 私たちの場合も、このことは同様です。私たちはキリスト者として地上で信仰生活をする時にも祝福と喜びがあります。しかし地上の喜びは過ぎ去っていくものであり、浮き沈みもあるものす。私たちの生命は天にあるので、その天の国籍を喜ぶことが、自分を保ち、常に変わらない平安と力を保つ秘訣です。

2021/3/7 ルカ福音書10:1~16 神の国は近づいた

 ・「神の国」宣教の緊急性
 主イエスは「別に七十人を定め」て派遣しています。彼らに対して、幾つかの命令を与えています。「働き手」が加えられること、「狼の中に小羊を送り出すような」危険が伴うこと、財布持たず、挨拶もせずに宣教地に行くことなどです。それらはみな「神の国」宣教が緊急性を要した働きであることを示す命令です。

・神の国は近づいた…救い
 弟子たちの宣教の内容は、一言で「神の国が近づいた」とあります。「神の国」とは、主イエスと共に到来した神の支配です。それは「すでに」と言う側面と「まだ」という2つの側面を持ちます。「すでに」とは、福音と聖霊による支配として現れ、「まだ」とは最後の審判と共に公然と現されるからです。そして神の国の福音を受け入れた者は、最後の審判の中で救いが明らかにされます。

・神の国は近づいた…裁き
 最後に主イエスは「神の国」の福音を受け入れない者たちに対して、警告を与えています。「その日には、その町よりもソドムのほうがまだ罰が軽い」。
 私たちはこの町で「神の国」宣教を委ねられています。まずは自分自身が「目を覚まして」福音に聞いて応答すること。次に宣教によって町の人々が「目を覚まして」救いに入れられることを祈りましょう。

2021/2/28 ルカ福音書9:57~62 手を鋤につけてから

 ・人の子には枕する所もない
 主イエスは弟子となろうとする者に対して「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」語ります。狐も鳥も地上で安住の場があるが、キリストとその弟子に約束されているのは、地上での安住ではないことを示しています。

・死人たちに死人たちを
 別の弟子に対しては「死人たちに…死人たちを葬らせなさい」と語ります。はじめの「死人たち」とは神から離れて地上のことに始終する人々のことです。彼らの関心事は地上の生命と葬りです。その人々に肉体的な「死人たち」を葬らせないということです。
「あなたは出て行って、神の国を…」とあります。神の国は福音とともに到来している永遠の生命の広告です。弟子たちは新しい生命に招かれているので、世の業から決別して生命のために働くように促しています。

・手を鋤につけてから
 第3の人は、家の者に暇乞いを求めています。その人に対して「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません」と中途半端な志をたしなめています。確かにロトの妻の例にあるように、世に対する執着は災となります。私たちも神の御国に招かれているキリストの弟子として姿勢を正すべきです。