2020/5/31 ルカ4:16~30 ナザレでの宣教

・ナザレでの宣教

 主イエスはご自分の故郷の町ナザレに行き、安息日、会堂で、イザヤ書61章を朗読しました。「主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから…」とあります。この箇所は、ヨベルの年に例えて、キリスト到来とともに福音宣教が始まり、神の救いが実現することが預言されています。

 

・「主の恵みの年」

 「主の恵みの年」とは、神が民を「受け入れる時」「招待の時代」という意味です。福音宣教とともに、神の国の門が開かれて、キリストを通して神が罪人たちを招待しているということです。主イエスは朗読の後「きょう…実現しました」と宣言しました。「きょう」とは、ただナザレで宣言された日だけではなく、福音が宣べ伝えられる時、いつでも「きょう」であり、そこに神の国の開門と招待があります。

 

・躓きと拒絶

 ナザレの人々は、主イエスのことばに驚きましたが、同時に「この人は、ヨセフの子ではないか」とイエスの貧しき外見に躓きました。彼らはキリストは輝かしい存在という先入観があったからです。彼らは主イエスと福音を拒絶し、イエスを崖から突き落とそうとしました。

 いつの時代にも、福音は小さき人間たちによって語られ、躓きが伴います。しかし、そこに神の国の門が設けられており、それを拒絶することは、拒絶され、受け入れるものは受け入れられるのです。

 

2020/5/24 ルカ福音書4:1~13 荒野での試み

・第1の試み…石をパンに
 主イエスは罪人たちの救済者として荒野で悪魔の試みにあいました。空腹と衰弱が極限に達したとき、悪魔は石をパンに変える奇跡をなすように試みます。しかし主イエスは「人はパンだけで生きるのではない」との御言葉によって、試みを退けます。キリストの救済は第1にパンを与えることではないのです。

・第2の試み…世の権力と栄光
 次に悪魔は「いっさいの権力と栄光」を見せ、神から離れてそれを獲得させようと試みます。しかし主イエスは「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい」との御言葉で退けます。キリストの救済は世の権力と栄光を与えることではなく、ただ神の礼拝者を獲得することなのです。実際、主なる神こそ永遠の栄光と生命で、それを民に与える方です。

・第3の試み…テスト/印
 最後に悪魔はエルサレムの神殿に主イエスを連れていき、飛び降りるように促します。もし神の子ならみ使いたちが助けるのだからと御言葉を用いて神の子として印を求めさせます。しかし主イエスは「あなたの神である主を試みてはならない」との御言葉で退けます。
 現代も悪魔は様々な試みによって私たちを誘惑して、父の神とキリストから引き離そうとします。その際、聖書に立って「ただを拝み、主にだけ仕える」信仰を保って歩みたいものです。

 

2020/5/17 ルカ福音書3:21~38 イエスの洗礼

・イエスの洗礼
 主イエスは神の子でしたが、処女降誕によって人の子として成長しました。また罪のない方でしたが、罪人が受けるバプテスマ(洗礼)にあずかりました。それは主イエスがあえて、ご自分を低くして、罪人の中に加わってくださった印でした。

・聖霊と神の声
 主イエスがバプテスマに預かっていたときに、天からの印が現れました。1つは「天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られた」ことでした。彼は聖霊を宿していましたが、公に下され、これによって全人類の贖いの道に進むことになります。
 もう一つは天からの声「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」でした。これも公の印で、父の神がイエスと業を全面的に受け入れていることを証しします。

・最初のアダムと最後のアダム
 最後にイエスの系図が記されています。系図上にはダビデ、アブラハムがおり、さらに最初の人アダムにつらなっています。彼は地上の生命の源ですが、罪と死の原因でした。
 イエスは人の子として地上に下り、バプテスマに預りました。それは彼が全人類の一員となることによって、その罪を一切に引き受けるためでした。さらに新しい人類の代表となるためでした。「…最後のアダムは、生かす御霊となりました。」Ⅰコリント15:45とありますが、イエスはこの「最後のアダム」です。

2020/5/10 詩篇55:22 重荷をゆだねる

 ・母と重荷

 母は、神から託されて生命を産み、育み、守る役割を担います。またその賜物も受けています。それは何よりも喜びですが、また担えないほどの重荷となることもしばしばです。特に、現代の母親は孤立してしまう場合が多いと言われます。

 

・重荷をゆだねる

 詩篇55:22に「あなたの重荷を主にゆだねよ」とあります。 「重荷」とは与えられたものという原義がありますが、また心配、煩い、重荷と翻訳されています。母親にとって、子どもはここでいわれている「重荷」そのものです。

 「ゆだねる」とは、任せるということですが、放り出す、降ろすという意味があります。ですから乱暴な言い方ですが、すべて重荷を投げ出しなさいということです。子どもはもともと神が与えてくださった賜物です。それをもう一度、神にすっかりと任せきるようにということで、さながら礼拝です。母は子どもを通して神との出会いがあるのです。

 

・主が心配してくださる

「主は、あなたのことを心配してくださる」これは約束の言葉です。「心配する」とは、単に気持ちだけで気にかけるというのではなく、実際的に、支え、養い、守り、育ててくださるということです。実際に聖書でも、モーセの母ヨケベテ、イシュマエルの母ハガルが、その神の心配と養いを体験しています。

2020/5/3 ルカ3:1~9,15~17 荒野で叫ぶ者に声


・洗礼者ヨハネ
 皇帝テベリオの時代に、神の言葉がヨハネに下りました。ヨハネは早速、ヨルダン川のほとりに行き、悔い改めによるバプテスマを説きました。「終わりの日」到来の緊迫感の中で、多くの人々はヨハネのもとに赴きました。

・荒野で叫ぶ者の声…イザヤの預言
 彼の働きはイザヤが「荒野で叫ぶ者の声」として預言しています。彼の役割は、キリスト到来の先駆けとして、その道を真っ直ぐに平らにすること、つまり人々を悔い改めに導いて、彼を受け入れる準備をさせることでした。悔い改めは旧約預言者たちが偶像崇拝から主の礼拝に立ち返るようにと共通に語ったことですが、ヨハネ以降、さらに内面的根源的な悔い改めが要請されます。

・ヨハネの役割
 洗礼者ヨハネの働きは、強烈でした。彼のもとに来る人々に対して「まむしのすえたち」と語り、「だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか」と曖昧な態度を排除しました。またそれぞれに対して具体的に悔い改めを説いています。
 さらに彼の役割は、キリストを指し示すことでした。人々は彼をキリストとして祭り上げようとしましたが、彼はきっぱりと拒絶して「私よりもさらに力のある方」の到来を指し示したのです。
 福音書記者は主イエス到来の前に、ヨハネの悔い改めを描きますが、私たちもキリストと出会うためには悔い改めがまず必要です。