2019/9/22 敬老の招待礼拝 信仰による歩み ヘブル11:1~6


・「信仰がなくては」
 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」とあります。信仰とは目に見えないものを認める手段であり、同時に心の真実さです。神様は、信仰によって、ご自身の存在を認め、信仰によって、ご自身が報いてくださる神であるとして、近づく者をよろこんでくださるのです。それは若い時でも、年老いてからも、同じく、神に喜ばれる心であり、生きる姿勢です。

・信仰による歩み
 ヘブル人11章では7節以降に旧約聖書に出てくる神に喜ばれた人々を紹介しています。彼らの共通点は、神とその約束を信じ切って歩んだということでした。それは新約時代と今の時代でも同じです。私たちの多くの先輩たちは、信仰による鮮明な足跡を残しています。それは若い時だけではなく、年老いてなお、弱ることがない信仰でした。

・さらなる信仰
 信仰による歩みは、地上のことだけではありませんでした。「さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていた 」とあります。私が若いときに出会った老婦人も、そのような信仰を持った1人でした。彼女は神学生の私のところに近づいてきて、一言、証ししてくれました。「主よ、はしためのときはいつですか」と私は、いつも神様にお祈りしているのですよ。」と。不思議に、その見知らぬ婦人の言葉は、私の心に刻まれて、いまでも明瞭に思い起こすことができるのです。

2019/9/15 出エジプト32:1~14 金の子牛事件


・金の子牛事件
 モーセが山に登ってから約40日が経った時に、民は不安にかられ、アロンに偶像を造るように求めました。アロンが金の子牛を造ったときに、人々はそれを主なる神として生贄を献げて祭りを始めました。「民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた」とは偶像崇拝につきものの遊興と放縦の有様です。

・神の怒りとモーセの執り成し
 神は民の有様を見て「うなじのこわい民」頑固で不従順なと断じ、怒りを燃やしました。さらに「絶ち滅ぼす」とまで語りました。これに対してもモーセは必死になだめ、とりなしの祈りをしました。それはくり返し忍耐深くなされた結果、神はようやく怒りをなだめられました。しかし悔い改めることなくかたくなさを続ける者たちは、滅ぼされました。

・神を恐れる心と祈り
 この旧約の出来事は、新約に生きる私たちに教訓として語り継がれています。私たちの場合も、偶像崇拝や世をむさぼるような生活をするときに、滅ぼされるのは同じです。神を恐れて、それらを避けなければなりません。さらにモーセにならって互いのために、執り成しの祈りをする必要があります。世の力は強く、誰でもその虜になる危険をはらんでいるからです。
 ある人々は、必死の祈りと執り成しの力で、罪に陥っていた友や伴侶また家族を救い出したのです。
 

2019/9/8 出エジプト28章 アロンの胸当て


・大祭司職
 モーセは神によって幕屋建設を示され、さらにそこで仕える大祭司職にアロンを任命するように命令を受けました。幕屋の材料はすべて天の栄光を現すようなものでした。それは幕屋に神が臨在されることの象徴でした。大祭司も神と民の仲介者として仕える働きのため、その装束は幕屋と同じ天の栄光を現す材料が用いられました。

・アロンの胸当て
 大祭司は贖いと執り成しの職務を持ちました。執り成しの職務を象徴するものはエポデとそれに取り付ける肩当てと胸当てでした。特に胸当てには4列にイスラエル12部族を宝石が貼り付けられていました。アロンは12部族のすべてを等しく「胸の上に載せ、絶えず主の前の記念」としました。

・真の大祭司キリスト
 この大祭司アロンの職務は、キリストのひな形です。その職務は、旧約の時代に目に見える形で示され、新約の時代に霊として成就しました。キリストこそが真の贖いであり、彼は天の幕屋仕えて、直接に父の神の前に私たちのために執り成しをしておられます。
 「わたしの目にはあなたがは高価で尊い」(イザヤ43:4)とありますが、それは現代の民である私たちひとりひとりのことです。ヘブル人の手紙に「大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」4:16 と勧められています。私たちは、どのような時にも、よりすぐれた霊の幕屋、天の幕屋に進み行く幸いを享受するようにしましょう。

2019/9/1 出エジプト記20:15~17


・盗んでは…偽ってはならない
 第八戒は「盗んではならない」です。神は、人と共にその所有権もを尊び、また私たちの見境ない欲望と邪悪を嫌う方です。
 第九戒「偽ってはならない」とは、法廷などでの偽証だけではなく、社会生活における偽りを禁じています。神は正義で真実な方であるので、偽りの不正で正義が曲げられたり、人が真実から離れて悪魔の手下になることを嫌われるのです。

・欲しがってはならない
 第十戒は「欲しがってはならない」です。「欲しがる」とは、執拗に他人のものを求める心です。「むさぼり」とも言います。この戒めは、心の悪を禁じる戒めですが、心の悪を戒めるのは、この戒めにっよって他の場合も同様であることが、明らかにされています。
 主イエスは十戒の本質について「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」が基本と語っておられますが、この戒めによって、そのことが明瞭にされています。

・原罪
 十戒の目的の1つは、確かに人の行動と思いの規範を示すものですが、さらに人の心の奥に潜む原罪を暴くことにあります。ローマ7章でパウロはそのメカニズムについて詳しく述べています。それを真摯に守ろうとするときに、自分の罪が顕わになり「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と叫ばずにいられないのです。結局、十戒はキリストの救いを指し示すのです。