2016/7/24 創世記19:1~17,23~28 ソドムの滅び



・ロトとソドム
 御使いたちは夕暮れ時に、ソドムに到着しました。ロトは彼らを自分の家に招いてもてなしますが、その時に、ソドム中の者たちが家を囲んでロトと御使いたちに害を加えようとしました。それによってソドム中が罪悪にそまっていたことが明らかになり、主なる神はソドムを滅ぼすことを決めました。

・「いのちがけで逃げなさい」
 御使いはロトと家族にソドムへの裁きについて告げます。しかし婿たちにはそれは「冗談のように思われた」とあります。神の裁きの場合も、世の人々には「あり得ないこと」「冗談のように思われる」のです。ロト自身も、ソドムに家と財産があることから、すぐに逃げることについて「ためらい」を覚えています。しかし、御使いは、強いてロトと妻と娘たちを外に連れ出して、命令します。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。立ち止まってはならない。さもないと滅ぼされてしまう。」

・ソドムの滅びとロトの妻
 ロトたちが必死で逃げた後「硫黄の火を天の主のところから降らせ…みな滅ぼされた」とあります。それはすさまじい裁きの有様でした。ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった」とあります。世に執着していて、み言葉が心に刻まれていなかったのです。このようにして、ソドムとロトの妻の滅びは、後の時代に対する厳しい警告となっています。

2016/7/17 創世記18:16~33 とりなしの祈り



・神の友アブラハム
 ソドムの町は、罪悪に満ち、罪を訴える叫びが主なる神に届いていました。主なる神は、そのソドムを裁こうとしておりましたが、アブラハムを友のように信頼し、ソドムの裁きについて告知します。それは神の公義を明らかにすることと、彼をとりなし手とし、彼を通して神の憐れみを示すためでした。

・アブラハムのとりなしの祈り
 アブラハムはソドムのためにとりなしの祈りをしていますが、それは第1にロトとその家族を救うため、第2に神の公義が正しく示されるため、第3にはソドムの町自体を救うためでした。
 アブラハムは、悪者の故に町を裁くのではなく、その町の正しい人々故に救ってくださるようにと執りなします。その正しい人の人数を50人から始めるのですが、神のあわれみを信じて、45人、40人、30人、20人としついに10人でも裁きを猶予するよう願います。それに対して神は憐れみの心を示します。

・私たちのとりなしの祈り
 私たちもまたキリスト故に、神の友とされ、地上におけるとりなし手とされています。それは私たちの場合も、とりなしの祈りを通して、神のあわれみが示されて、一人でも多くの人々が救われるため、また私たち自身が祈りを通して、あわれみの神を深く知るためです。ですから、私たちに委ねられたとりなし手としての役割を十分に用いるようにいたしましょう。

2016/7/10 創世記18:1~15 約束のことば



・三人の御使い
 神は、具体的にアブラハムを祝福する段において、旅人の姿の三人の御使いを遣わします。彼らが訪れたときに、アブラハムは心から受け入れてもなします。旅人をもてなすことは、義人の務めでしたし、彼は外から来る人に寛容でした。

・約束のことば
 御使いは「私は来年の今頃、必ずあなたの所に戻ってきます。その時、あなたの妻サラには、男の子ができている」との約束のことばを与えます。当時、アブラハムは99才、サラは89才でしたから、子供を産むと言うことは不可能でした。それで、アブラハムもサラも約束のことばを聞いたときに「笑った」のです。このようにして神のことばは、人間の思いと力を超えたことばであることが明らかにされています。

・約束の子
 約束のことばに従って、それから1年後にイサクが誕生するのですが、彼の名は「笑太郎」とで言うべき名です。人間の思いを超えた神の恵みを示しています。
 イサクのことは、後の時代のキリスト者の予型となっています。つまりキリスト者もまた、約束のことば(福音)によって生まれるからです。次のみ言葉の通りです。
 「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。」ガラテヤ4:28

2016/7/3 創世記17:1~8 全き者であれ



・全能の神
 アブラムが99才になったときに神はご自身を「わたしは全能の神」と啓示されます。全能とはオールマイティーということで、どんなことでもできるということです。天地創造と破壊、死と復活、無から有を創造することなどです。またその力をアブラムの益のために用いて下さるということを示しているのです。アブラムにとって全能かつ愛の神ということです。

・全き者であれ
 「全き者であれ」と神はアブラムに語ります。「全き」とは「完全な」「傷も汚れもない」「非難されるところがない」という意味です。それは神に全幅の信頼をおいて歩むことによって実現する状態です。神は御民をご自分と同じような者となるように招いておられるのです。
 アブラムはアブラハム(諸国民の父)という名をいただきます。そして、後の信仰者たちの父、祖型とされます。

・私たちもまた
 私たちは信仰によるアブラハムの子孫で、私たちに対してもまずご自分が全能者であることを示しております。それはイエス・キリストの死者の中からの復活です。さらに私たちに対して「全き者であれ」と招きの言葉を与えています。
 それはエペソ1:4に次のようにあるとおりです。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」