・ぶどうの木のたとえ
主イエスはご自分を「まことのぶどうの木」と語ります。ぶどうは人々にとって祝福の実となっていましたが、主イエスこそが人生に「まことの実」をもたらす方であることを宣言しているのです。また「わたしの父は農夫」と語りますが、それは父の神がぶどうの木に働いて、それに連なる者たちに、最大限の実をならせる方だからです。
・父による剪定
父の神は農夫として水をやり、肥やしを与えるのですが、何よりもその知恵は剪定に現れます。実をならせない枝は取り除き、「実を結ぶものは」「もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」とあります。それは信仰者たちのことです。すでに実を結んでいたとしても、神はさらに祝福するために聖めの業をなさるということです。それには辛さが伴うことがあるのですが、しかし農夫の業は完全です。
・留まる
神の剪定は信仰者にとって信仰の危機となります。しかし以前よりも強い信仰心を働かせてキリストに「留まる」時に、そこで聖霊の恵みと生命が溢れ、かえって多くの祝福の実を得ることになるのです。ですから、どのような時にも「留まる」信仰を働かせることが、肝要です。