2015/9/27 召天者記念礼拝 Ⅰコリント15:42~49 復活について



・召天された方々
 私たちの教会では、すでに召天された方々は21名になりました。それぞれが地上の生涯のある時点で、キリストを信じて、復活の生命を与えられました。私たちは、召天者を偲ぶだけではなく、この方々に与えられた希望をよく覚えるべきです。

・血肉の体で蒔かれ
 「朽ちるもの」「卑しいもの」「弱いもの」「血肉のものと語られておりますが、これは地上の生命を意味します。「蒔かれ」とは、「神の言葉」と言う種が蒔かれたということです。つまり、生涯において神の言葉に接して、それを心から信じたときに、私たちの地上の生命に中に「蒔かれる」ということです。
・甦らされ
 この「種」はチッポケに思われますが、その中には神の力が宿っています。そこから芽生え成長するものは復活の生命であって、地上の生命とは、全く異なります。つまり「朽ちない」「栄光ある」「強い」「御霊に属する」生命です。また、天の御国でも生きる生命です。
 また「血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです」とあります。つまり復活の生命は、空虚なものではなく、具体的に霊とからだが伴う生命であるということです。
 召天者は、すでにその約束に入れられていますが、私たちも信仰を保って、終わりの日に体の復活に預かるようになりましょう。

2015/9/13 ヨハネ福音書15:12~15 共のために生命を



・イエスの戒め…愛
 主イエスは弟子たちに対して1つの戒めを与えています。それは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと」です。イエスが命じる愛は人間的な愛とは異なります。それはアガペーの愛と言われ、神に由来する愛です。

・友のために生命を…イエスの愛
 アガペーの愛は何よりも「友のためにいのちを捨てる」愛という形で明らかにされます。人間的な愛はエゴと地上の生命(プシュケー)を惜しんでそれを捨てることができません。その愛の典型はイエスの十字架上の愛として現されました。彼も血肉を身にまといましたが、自分の生命に対する執着を捨てて、私たちの犠牲となったのです。

・友を生かす愛
 また「友のためにいのちを捨てる」愛は、友を生かす行為となって現されます。小説家の三浦綾子さんは罪深い自分がキリスト者に変えられたのは友人が自分に対して示した愛の故であったと証ししています。私たちの場合も、実際に死ななくとも、自分のエゴを殺して愛を示すことができます。それによって友を生かし、建て上げることができるのです。 

2015/9/6 ヨハネ福音書15:7~11 イエスに留まるとは?



・イエスのことばに留まる
 主イエスはご自身に留まるとはどういうことか具体的に語ります。その第1は「わたしのことばがあなたがたにとどまる」ということです。つまり、み言葉は、イエスのことばであり、それを信じることは、イエスに留まることになります。それは生きていて、イエスの生命をもたらすのです。

・イエスの愛に留まる
 第2に、イエスに留まるとは「イエスの愛にとどまる」ことです。父と子の間には無限の愛の交流があります。それは生命を投げ出して愛する程の愛です。その愛で、主イエスは私たちを愛し、私たちを罪から救い、神の子としました。その愛を信じて、イエスの救いを全面的に受け止め続けるということです。
 この「留まる信仰」に対して、サタンはありとあらゆる手段をもって攻撃をしてきます。試練、異端、高慢などがそれです。

・祝福と喜びの実
 私たちがイエスに留まる時に多くの実を結びますが、それは御心にかなった祈りを通してもたらされます。家族のため、教会のため、社会のためなど、すべてのところで神の御心が実現するようにとの祈りです。また祈りに付随して御霊の実が与えられます。つまり「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、23柔和、自制 …」ガラテヤ5:22~23

2015/8/30 ヨハネ福音書15:1~6 ぶどうの木のたとえ



・ぶどうの木のたとえ
 主イエスはご自分を「まことのぶどうの木」と語ります。ぶどうは人々にとって祝福の実となっていましたが、主イエスこそが人生に「まことの実」をもたらす方であることを宣言しているのです。また「わたしの父は農夫」と語りますが、それは父の神がぶどうの木に働いて、それに連なる者たちに、最大限の実をならせる方だからです。

・父による剪定
 父の神は農夫として水をやり、肥やしを与えるのですが、何よりもその知恵は剪定に現れます。実をならせない枝は取り除き、「実を結ぶものは」「もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」とあります。それは信仰者たちのことです。すでに実を結んでいたとしても、神はさらに祝福するために聖めの業をなさるということです。それには辛さが伴うことがあるのですが、しかし農夫の業は完全です。

・留まる
 神の剪定は信仰者にとって信仰の危機となります。しかし以前よりも強い信仰心を働かせてキリストに「留まる」時に、そこで聖霊の恵みと生命が溢れ、かえって多くの祝福の実を得ることになるのです。ですから、どのような時にも「留まる」信仰を働かせることが、肝要です。