2015/6/21 創世記28章 祝福する者



・父イサクの祝福
 父イサクは晩年に、子ヤコブを呼び寄せて祝福しています。彼自身もアブラハムの祝福を受け継いでいましたが、さらにその子孫に祝福を伝えようとしているのです。
 彼の祝福の内容は「全能の神が祝福すること」「多くの子が与えられること」「土地を継ぐようになること」でした。さらには神の救いの継承も暗示されています。

・子ヤコブの生涯
 子ヤコブは不安感の強い人でした。そこで人一倍、祝福を求めている人でした。それで父の祝福の言葉は励ましとなり慰めでした。そして、その後、波瀾万丈な生涯を送ることになるのですが、不思議に父の約束の通りに、彼は幾度も危機を脱して、神の恵みを獲得するようになるのです。

・父…祝福する者
 父親は祭司的な賜物を与えられている人々です。その祝福は、子たちを励まし、力づけることになります。
 また父親と年配の男性は、社会の中でも祝福を与える者として立てられています。その社会的経験と威厳と愛情を持つ人間が、祝福することで、地域の子どもたち、教会の若い世代は、力づけられるのです。

2015/6/14 ヨハネ福音書13:36~38 「主よ。どこに…」



・「主よ。どこに…」
 ペテロは弟子団のリーダーであるだけではなく、信仰者の典型として描かれています。彼は主イエスが去って行くことを察知して「主よ。どこにおいでになるのですか」と尋ねています。主であり、師であるイエスに付き従って目的地に達することが弟子の本分だからです。

今は…できません
今はついて来ることができません」とあります。「今」とは、十字架前の時であり、自分の罪と神の愛の深さを認識していない時のことです。あるいは、彼がいまだ古い人から新しい人に変えられる以前のことといえます。肉のままの状態では、イエスに従って十字架に向かい神の国に至ることはできないのです。

・十字架の下で
 このことはすべての信仰者にも共通に言えることです。純粋な信仰は自分の罪を深く知るところ、神の愛を知るところから生じます。カルバンは大切な知恵は二つあると語っていますが、その知恵とは自分自身と神についての知恵です。信仰者は生涯をかけて二つの知識を深めていくのです。その発見の場はいつも十字架です。

・後には
「…しかし後にはついて来ます」と主イエスは語りましたが、主イエスの十字架の後、ペテロは全く新しい人に変えられました。そして主イエスの道を自分の道として生涯にわたって従っていったのです。伝説によると最後は、逆さ十字架にかけられたと言われています。

2015/6/7 ヨハネ福音書13:31~35 新しい戒め



・人の子の栄光
 ユダが出て行った時に主イエスは「人の子は栄光を受けました」と語りました。ユダの裏切りにより、主イエスの受難が始まるのですが、しかし、それにより主イエスが地上に来られた神の目的、つまり贖いが成就するからです。そこに神の子として姿、つまり、神の愛が明らかになるのです。

・新しい戒め
 主イエスは弟子たちの元から去ることを予知します。同時にイエスなき時代に弟子たちが何によって、イエスの弟子集団として存在するかを明示します。それは「新しい戒め」によります。モーセの時代にシナイ山で与えられたのは「古い戒め」と対比されています。「古い戒め」は恐怖の中与えられた戒めでしたが、「新しい戒め」は神の愛を土台とした戒めです。

・「互いに愛し合いなさい」
 「私が愛したように互いに愛し合いなさい」これ[新しい戒め」です。「愛する」とはアガペーという言葉で、神が持つ愛です。その愛は不敬虔な者や罪人のために、自分の生命を捨てるという愛です。このアガペーの愛は生来の人間にはありません。ですから、私たちは、私たち自身に注がれるイエスの栄光に照らされながら、その愛を心に宿し、そして兄弟に対して実践できるのです。そしてイエスの弟子集団であり続けるためには、この「新しい戒め」「愛」の目標からぶれないことが大切です。

2015/5/31 ヨハネ福音書13:21~30 ユダの裏切り



・最後の晩餐
 最後の晩餐の席で、主イエスはユダの裏切りを明瞭に察知して「霊の激動を感じ」ています。また弟子たちも主イエスの言葉によって狼狽えています。これまで主イエスは弟子たちを愛し、育ててきたのですが、なお弟子たちは世的で、それは根強いものでした。この裏切りはそのような弟子たちの自己中心と虚栄から生じた悪の実といえます。

・ユダの裏切り
 「彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼にはいった」とあります。ユダは、完全にイエスのもとから離れ去り、サタンまた悪魔の権化となって裏切りを実行することになるのです。人間的に見れば、この裏切りによって弟子団は崩壊し、主イエスは十字架の悲劇にあうことになります。しかし、それさえも神の計画に立ち返れば、神の勝利/イエスの救いに繋がります。

・闇はこれに打ち勝たなかった
 私たちもまた、地上の生涯において信仰の挫折や失敗を経験します。しかし、いつでも私たちが主イエスの元にに立ち返るなら、神の勝利に繋がります。そして以前よりも、よりキリスト教信仰の本質とキリストの光とは何であるか明瞭に認めることができるようになるのです。
 「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」ヨハネ1:5とありますが、まさにそのとおりです。