2015/5/24 ヨハネ福音書13:12~17 主イエスの模範



・教師/主であるイエス
 主イエスは「上着を着けて、再び席に着いて」弟子たちに対して語っています。それはご自分が彼らの「先生であり、主である」ということです。それは単に当時の弟子たちにとって一時的な教師/主というのではなく、絶対的な教師/主ということです。弟子たちも、いつの時代の人々も彼から学び、彼に従うべきと言うことです。

・主イエスの模範
 主イエスは弟子たちの足を洗いましたが、それが弟子たちのための模範であることを明示しています。模範とは、人々が心に刻んで覚え、さらにその通りに実践する型ということです。
 人は本質ではなく枝葉のことを記憶して、それを真似て満足しがちですが、私たち主イエスの模範をしっかりと心に刻み、実践すべきです。

・互いに足を洗う
 「互いに足を洗い合う」というのは自分とプライドという殻を脱ぎ捨てて無になること。さらに相手の必要に答えて仕えることです。また「互いに忍び合い…互いに赦し合う」こともそうです。このようにして、主イエスの弟子たちは、実際に模範にならって自分の殻を破って「仕え合う」ことで成長するのです。

 世は互いのエゴとプライドで人間同士がぶつかる社会です。この社会の中にあって、教会は新しい人間関係、新しいコミュニティーの形を提供するのです。

2015/5/17 ヨハネ福音書13:1~11 キリストの洗足



・愛を残るところなく
 「自分の時」とは、主イエスが救いを完成し、勝利者として父の元に返る時を意味します。それはまたペテロを初めとした弟子たちと別れる時を意味していました。そこで主イエスは弟子たちに対しての愛をよく分かるようにして示し、また分かれた後にも継続する愛の交わりを象徴的な形で示しました。

・キリストの洗足
 主イエスは仕える者となって、弟子たちの足を心を込めて洗いました。「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」 とある通りです。そこにキリスト愛の形と心が現されたのです。

・洗足と霊的交わり
 ペテロは主イエスによる洗足を恐れ多いこととして拒もうとしました。しかし主イエスは「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と語って諭します。この主イエスとの関係とは、昇天後の霊的関係をも意味します。
 つまり、地上に生きる限り弟子たちは罪や汚れに染まることは避けられません。そのようなときに自力本願的に自分の罪を聖めることは不可能だし、そのような努力は誤りです。むしろ素直に主イエスに祈って罪を告白して、聖めていただくことが大切なのです。それによって愛の交わりも保たれまた深まるのです。

2015/5/10 母の日礼拝 出エジプト2:1~10 「かわいいのを見て」



・かわいいのを見て…守る
 モーセの母はヨケベテという名の女性でした。彼女はアロンとミリヤムの母でもあり、立派な信仰者だったようです。
 モーセが生まれたのは、神の民にとって危機の時代でした。しかし彼女は「そのかわいいのを見て、三か月の間その子を隠しておいた 」とあります。「かわいいのを見て」とは単に人間的な感情だけではなく,「神の御心にかなってかわいい」ということです。それで自分の人間的な力を超えて、子どもを危険から守ろうとしたのです。

・神にゆだねる
 しかし、自分で子どもを守ることができなくなったときに、「自分が」と固執することなく、神に子どもをゆだねる決意をします。「かごを手に入れ子を中に入れ、葦の茂みの中に置いた」とあります。神はその信仰をご覧になり、その子にパロの娘という救助者を与えたのです。

・真の神を教える
 さらにヨケベテは、モーセの乳母として宮廷に入り込んで、彼に真の神について教え、宗教心を養いました。モーセはエジプトのあらゆる学問を学んだのですが、その心は真の神信仰に支えられていました。それによってやがて,神の民の救済者として活躍することになるのです。
 母親が自分の子供をかわいいと思うのは,当たり前の感情です。その生来の感情を昇華させる時に、神の恵みもまた、溢れるほどに注がれるのです。

2015/5/3 ゼカリヤ14章 安住の地



・「主が来られる」
「その日、主の足は…」と主なる神が地上へ来られることが預言されています。神は唯我独尊で天に留まっている方ではなく、地上に介入される方です。そして神は審判者としてまた神の民を救うために必ず来臨するのです。その時に、すでに眠っていた聖徒たちも共に現れ、地上に残った民と共に、新しいエルサレムつまり神の国に入れられます。

・夕暮れ時に光
 神の国では「光も、寒さも、霜もなく」「昼も夜なく」とあります。地上の暑さ寒さだけでは無く、一切の苦しみと困難が過ぎ去って無くなったことを意味します。ただ「夕暮れ時に、光」とありますが、この「光」は神の光です。神の光だけが人に平安を与え永遠に生かすのです。

・永遠の湧き水
 「エルサレムから湧き水が流れ出て」とあります。この湧き水は神ご自身から流れ出る生命の水です。これによって民も潤され永遠の生命を得ます。
 これらの預言は,すでに主イエスにおいて霊的に実現しています。そして、「終わりの日」に公に実現します。

・安住の地
 私たちには地上の住まいがありますが、それらは必ず廃り,過ぎ去るもので、また苦難もあります。私たちにとって、ただ神の国だけが安住の地です。そこで地上の生活の中でも、祈りの中で霊的安住を覚えつつ、未来の公然とした安住の地への希望を育むのです。