2014/3/23 ヨハネ福音書6:16~21 ガリラヤ湖の嵐



・ガリラヤ湖の嵐
 ガリラヤ湖は主イエスと弟子たちの生活と活動の場でした。しかし、湖面はよく変化し、さながら人々の生活と心の様のようです。本日の箇所でも、突然の真夜中の嵐で、困難に直面している弟子たちの有様が描かれています

・恐れ
 「45キロメートルほどこぎ出したところ」とはガリラヤ湖の中央部です。そこで弟子たちは嵐に悪戦苦闘していたときに、湖上に主イエスの姿を見たのです。しかし、その時には主イエスと認めることができず、「恐れた」のです。人は困難の中では、悪い方に物事を考えてしまいますが、その人影を幽霊と錯覚したようです。
・わたしだ 恐れることはない
 「わたしだ」 とは、ギリシャ語で「エゴ エミー」です。神としての絶対的存在を表す言葉です。しかも「恐れることはない」とあり、主イエスが弟子たちに対しては常に救い主であり、恵みの関係にあることを示しています。
 
・喜んで迎え入れた
 「イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。 」とあります。このことは、私たちの信仰生活でも同じです。私たちの場合も、困難に直面しているときに、物事を悪い方に考えてしまうものです。そんなときでも主イエスは「わたしだ。恐れることはない」と語りかけてくださっています。その主イエスとみ言葉を受け入れることが大切です。

2014/3/16 五つのパンと小魚 ヨハネ福音書6:1~14



・草原の教会
 ガリラヤ湖の向こうで、主イエスが山に登られたとき、大勢の人々が従い、そこに「草原の教会」ができました。しかし、その「教会」は、羊飼いのない羊の群れのようで、弱さをまとい、まったくの欠乏の状態でした。

・試み
  主イエスは人々の必要を満たしたいと思い、まず弟子たちに対して人々の必要を満たすようにと試みました。ところがピリポは「二百デナリのパンでは足りません」 と目先の現実を見るだけで、ソロバンをはじき出すようにして諦めています。アンデレも少年が献げた五つのパンと二匹の小魚を手にしながら「こんなに大ぜいの人々では何になりましょう」と無力感を覚えています。

・五つのパンと小魚
 そこで主イエスは、この欠乏に対処する姿勢を身をもって示されます。まず「五つのパンと二匹の小魚」を手にとって神に感謝をささげ、神が必要を満たしてくださることを信じて、その恵みをも感謝しました。すると「五つのパンと小魚」は、イエスの手の中で満ちあふれ、男だけで五千人の人々を十二分に満腹させたのです。

・教会と満たし
「教会はいっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」エペソ1:23 とあります。キリストの恵みが満ちているのは教会は二千前の草原の教会だけではなく、現在の教会も同じです。私たちも与えられたものを感謝し、さらに満たされるよう祈りましょう。

2014/3/9 イザヤ65:17~25 新天新地の創造



・新天新地の創造
 神は世の終わりに新天新地を創造されます。古い天地は罪と死が支配していましたが、新天新地ではただ神の恵みと生命が支配する世界であり、古い世界よりもすぐれています。それゆえに「先のことは思い出されず、心に上る事もない」のです。

・いついつまでも楽しみ喜べ
 イザヤ書は「楽しみと喜び」の預言書ですが、それは新天新地において極致に達します。神が民を「楽しみ喜び」また、民もまた「いついつまでも楽しみ喜べ」と命じられています。
 新天新地では永遠の生命が溢れ、人々はその労苦が報われるからです。また弱肉強食の世界ではなく、平和と自由の世界だからです。

・新天新地と今
 イザヤが語る新天新地は「終わりの日」の預言ですが、主イエスを信じ者の心には、先駆けて、新しい創造が起こります。
 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたもので。古いものは過ぎ去って、見よ。すべてのものが新しくなりました。」 Ⅱコリ5:17とある通りです。
 教会は、キリストを信じる信仰によって、今の時代において新天新地を現していく場です。み約束を信じて、御国の「楽しみ喜び」を現していきましょう

2014/3/2 イザヤ64:1~12 あわれみの器



・神の来臨と審判
 イザヤは神が「天を裂いて」来臨し、火のような明々白々たる力で審判をなすことを告白します。これまでも、神は歴史に介入してご自身の民を救い、敵を裁いてこられましたし、未来においてもそのようになさる方です。
 しかしイザヤは民の罪深さゆえに、御民も裁きを免れないという現実に打ちのめされています。

・「あわれみ」の接点
 そこでイザヤは自分たちの義によってではなく、神のあわれみによって救ってくださるようにと祈り求めています。神は民にとって父であり、民の落ち度も贖う方です。また陶器師として、粘土の欠けをあわれみによって補うことができるお方だからです。
 この「あわれみ」だけが神と民を結ぶ接点なのです。事実、神はイザヤの祈りに応えて救い主キリストを遣わし救いを実現されます。
 
・あわれみの器として
 私たちはさらに罪深い異邦人で、本来は「怒りの器」でした。しかし神のあわれみゆえに「あわれみの器」とされています。
 このことを自覚して、決して高ぶることなく、むしろ「あわれんでくださった神」に感謝し、讃えるようにしましょう。さらに私たちの祈りも神に「あわれみ」に訴える祈りであることを覚えて、どのような時にも目を覚まして祈りましょう。