2013/11/17ヨハネ福音書5:1~18 ベテスダ池の病人


・ベテスダ池の病人
 天使が、ベテスダ池の水をかき回す時に、病気が癒されるという迷信がありました。それを信じて、多くの病人が、池の回りに伏せて、空しく時を過ごしていました。
 主イエスは「38年もの間、病気にかかっている人」に目を留められました。


・主イエスに心を向ける
 主イエスは「よくなりたいか」と彼に語りかけます。病人は、藁にもすがる思いで「主よ」と呼んで主イエスに心を向けています。しかしそこから出てくることばは不平と不満でした。彼はまったく身も心も弱り果てて絶望的な気持ちで癒されることを待望していました。


・み言葉の力
 「イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて、歩きなさい。」  
 病人は水がかき回されたときの補助を期待していたのですが、主イエスはご自分の言葉を与えました。み言葉のみに救いの力があるからです。病人は「すぐに直って、床を取り上げて歩き出した」とあります。


・み言葉に聞くこと
 私たちもまた、この世に何らかの救いや望みがあるかのように錯覚して、空しく時を過ごしていることがあります。しかし救いはただ主イエスのみ言葉にあります。それに耳を傾け、心を傾けることが大切です。その時に、み言葉自身が私たちの内に力と生命を甦らせて、私たちを立ち上がらせ、新たな歩みへと進ませるのです。

2013/11/10 ピリピ4:6~7 煩いと祈り




・「煩い」
 聖書の煩うということばは、心が分かれるという意味です。「あれかこれか」と判断に迷うのです。しかもその迷いの原因は、不安感と不信で、やがて「あれもダメ、これもダメ」というジレンマに陥り、心のエネルギーを失うことになります。


・「ビュリダンのロバ」と判断の壁
 「ビュリダンのロバ」という話があります。「あるところに賢い厳格なロバがいました。彼の前に2つの干し草があり、両方の干し草はまったく同じ量で、同じ距離でした。ロバは良い方を選びたいのですが、判断できません。ついには立ち往生しながら餓死してしまうのです。」
 これは実は煩いに陥るときの人間の姿です。この時、彼のうちには、世界と自己に対する不信感と不安感があったので、それが「判断の壁」を造っていたのです。


・祈りにより判断の壁を取り除く
 この「判断の壁」を克服するためには「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願い」が有効です。その時に、私たちは神が私たちを愛してくださる方であり、すべてを益とされるという確信を持つことができます。さらに神ご自身が「人のすべての考えにまさる神の平安」を注いでくださるのです。


・祈りにより神への信頼を養う
 21世紀の世界では、いよいよ世界と自己に対する不信感と不安感が増大します。親は子どもたちとともに祈る習慣を養いながら、子どもの心に神に対する信頼感を形成することが大切です。

2013/11/3 ヨハネ4:43~54 「み言葉を信じて」



役人の求め
 主イエスがカナに行いったとき、王室の役人が息子の癒しを求めてやってきました。彼はユダヤ人一般のスタイルで、信仰など抜きに、ただ癒しの奇跡を求めるだけでした。

・イエスの叱責
 主イエスは「あなたがたは、しるしと不思議を見ない限り、決して信じない。」彼を厳しく叱責します。信仰の先に奇跡や霊的体験を求める求道姿勢は、いつまで経っても安定することなく、救いに至ることはありません。 

み言葉を信じて
 役人は主イエスの叱責によって心の目を覚まし、改めて信仰によって求めます。その時に主イエスはみ言葉を与えます。「その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた」とあります。
 このみ言葉を信じて安んじる信仰こそが、主イエスが求めていた信仰の基本姿勢です。

私たちの信仰生活
 私たちは生来、目に見えることに頼る肉的体質を持っています。それで主イエスに対する求道姿勢も「しるしと奇跡」をもとめるような情緒的で不安的なものとなりがちです。
 そこで私たちもまた、そのような私たちに対する主イエスの叱責を覚えつつ「このみ言葉を信じて安んじる信仰」を確立して行くべきです。