・暁の子
「暁の子」とは金星のことで、暁の空にひときわ輝く星です。イザヤは地上の権力者、特にバビロンの王をこの星にたとえました。確かに、彼は当時の世界を征服し、最高の輝きを放っていました。しかし、それだけではなく高慢と傲慢の光もそれ以上に放っていました。地上の権力者の光は、みな虚栄の光を放ちます。それはまたサタンの持つ光です。
・「神のように」という傲慢
「いと高き方のようになろう」つまり「神のようになろう」という思いは、傲慢の極みです。聖書では、人間の罪の本質として描いています。これは単に昔の王たちの傲慢の姿だけではなく、現代人の姿です。
この時代は個人が自由を持ち、それぞれが自分の世界を持つことが可能です。その闇の世界で、どこまでも傲慢な自我をを太らせ、勝手に輝かせることが可能なのです。しかしそれは罪の暗闇に輝くだけです。
・傲慢の末路
「あなたはよみに落とされ」とあります。よみとは神から見放された者たち、死者たちのおぞましい世界です。暗闇の中に輝く者の死後は、天国ではなく、「よみ」であり「穴の底に落とされるだけです。
それゆえ私たちは決して傲慢の罠にはまってはならず、その結末をよく覚えることが大切です。
・神をのみ輝かす
また私たち自身としても、虚栄をはったりすることなく、ただ神にのみ栄光を帰することに心を傾けることが大切です。そこで、礼拝を重んじ、礼拝の場において、私たちの自我を砕き、神に心からの賛美をささげるのです。
2012/10/14 信仰告白「キリストの再臨」
・終末論とキリストの再臨
日本福音自由教会信仰告白第11条に次のようにあります。
「わたしたちの主イエス・キリストの御自身による千年王国前の、切迫した再臨を信じる。この「祝福に満ちた望み」は信者の個人的生活と信仰に重大な意義をもつものである。」
聖書の歴史観は、神による最初があって神による最後があるというものです。しかも「キリストによって」とあるのが特徴です。二千年前にキリストが地上に来られたことを初臨といい、終末における到来を再臨といいます。
・千年王国前の再臨
黙示録20章にキリストが再臨した後に、信仰者らがキリストともに千年の間、世界を支配するという啓示があります。信仰者は裁かれることなく、キリストのさらなる愛の中におかれると言うことです。
無千年王国説、千年王国後再臨説をとる教会もありますが、私たちは前千年王国説の立場に立ちます。
・切迫した再臨/祝福の望み
「目を覚ましていなさい」とあるように、聖書では切迫した再臨について啓示しています。私たちは聖書の歴史観、人生観にしっかりと立ち、「五人の賢い娘たち」のように忍耐深く待つという姿勢を保つべきです。この世の煩いや欲に捕らえられて、キリストの再臨を忘れ、信仰の灯火を消してはならないのです。
2012/10/7 イザヤ11:1~9 エッサイの根株から
・エッサイの根株から
ちょうど、花や果樹などの品種を作るように、神は人間を選びに選んで、ご自分の御心の器を到来させます。「エッサイの根株」とは、そのような人物であり、アブラハム、ダビデの子孫として到来します。しかも、ダビデ王朝が切り倒された後に、到来する人物キリストです。
そして、木に実がなるように、「根株の新芽」には、「主の霊」が留まります。そのようにして神の器とされるのです。
・キリストは完全な霊を受ける
キリストに留まる霊はまさに「主の霊」であってこの世の諸々の霊とは区別される聖なる霊です。また主の霊は主なる神の心と精神そのものですから、完全な「知恵と悟りの霊」です。さらに主の霊は天地創造をなし、歴史を支配する霊ですから、一切の「はかりごとと能力の霊」です。また主なる神ご自身の霊ですから愛する者にご自分を知らせ、また神と交わるに際してのふさわしい姿勢を教えます。つまり「主を知る知識と主を恐れる霊」です。以上7項目が上げられていますが、完全なる霊であるということです。
新約聖書ではナザレのイエスに聖霊が鳩のように下り、彼こそキリストであることを証ししています。
・私たちにも主の霊が注がれる
主なる神が、キリストを備えられたのは、彼を仲介にして、私たちにも霊を分け与えるためです。私たちは本来は罪人で悪い実しか持ちません。しかしキリストに結びつくことで、新しい人にされ、霊の実を結ぶことができるのです。ちょうど、接ぎ木された枝のようにです。
2012/9/30召天者記念礼拝 マルコ12:18~27 生きている者の神
・サドカイ人との論争
主イエスは、サドカイ人たちとの論争を通して明瞭に「死者のよみがえり」を主張されました。サドカイ人たちはモーセ五書だけしか聖典として認めておらず、そこだけからは「死者のよみがえり」の教理を見いださせないと主張しました。そこで主イエスは、あえてモーセ五書の一つの箇所から「死者のよみがえり」を示します。旧新約全巻を貫き、聖書は「死者のよみがえり」を語っているのです。
・アブラハムの神、イサクの神…
出エジプト記三章に「燃える柴」の箇所があります。モーセがミデヤンの羊飼いの時、ホレブ山で燃える柴の光景を見ます。それは燃えているが燃え尽きないので、不思議に思って近づくと、神の啓示がありました。
「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」 父祖たちは神を信じ、神との交わりを持ちましたが、それは地上の生涯で終わることなく、永遠の絆となっていたのです。そしてちょうど燃え尽きることがない柴のように、信仰者たちは生かされているのです。
・生きている者の神
世々の信仰者たちは、「死者のよみがえり」の希望ゆえに困難と迫害を甘んじて、信仰を貫きました。私たちの召天者たちも、その信仰のゆえに、神に覚えられ、生かされています。そして、来るべき日に私たちとともに「死者の中からよみがえる」者と定められています。
主イエスは、サドカイ人たちとの論争を通して明瞭に「死者のよみがえり」を主張されました。サドカイ人たちはモーセ五書だけしか聖典として認めておらず、そこだけからは「死者のよみがえり」の教理を見いださせないと主張しました。そこで主イエスは、あえてモーセ五書の一つの箇所から「死者のよみがえり」を示します。旧新約全巻を貫き、聖書は「死者のよみがえり」を語っているのです。
・アブラハムの神、イサクの神…
出エジプト記三章に「燃える柴」の箇所があります。モーセがミデヤンの羊飼いの時、ホレブ山で燃える柴の光景を見ます。それは燃えているが燃え尽きないので、不思議に思って近づくと、神の啓示がありました。
「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」 父祖たちは神を信じ、神との交わりを持ちましたが、それは地上の生涯で終わることなく、永遠の絆となっていたのです。そしてちょうど燃え尽きることがない柴のように、信仰者たちは生かされているのです。
・生きている者の神
世々の信仰者たちは、「死者のよみがえり」の希望ゆえに困難と迫害を甘んじて、信仰を貫きました。私たちの召天者たちも、その信仰のゆえに、神に覚えられ、生かされています。そして、来るべき日に私たちとともに「死者の中からよみがえる」者と定められています。
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