・キリストにある「私」
私たちは人生の色々な局面で、地上の益と喪失のどちらかを体験します。古い「私」は益が良し、喪失を苦痛と感じます。その最たる局面は生と死です。
しかし使徒パウロはキリストによって新しくされた「私」として人生を捕らえるべきであると教えています。
・生きるはキリスト
「生きることはキリスト」とあります。キリストはすべてであるということです。御言葉の約束において、キリストは「私」の罪を赦し、新しい生命を与え、「私」の生涯に豊かな実を与えてくださる方です。
使徒はキリストにあっての提供されている恵みをただ知っているだけではありませんでした。自分自身でも心から信じて、キリストを人生の土台としていくという告白をしています。キリストの恵みは単に受け取るだけではなく、私たちの側でも応答することでハッキリと分かるのです。
・死ぬことも益
一般的に「死」は大きな苦痛と捕らえられます。それは地上で得た一切を喪失する時と考えられているからです。しかし使徒は「益です」と言い切ります。私たちは生きている楽しみを覚えるのは「益」を獲得ているときです。ところがキリストにあるものにとって死こそ最高の「益」の「獲得」であることを示します。その理由は死によって完全にキリストを獲得し、その愛の御顔を直視できるからです。
・楽しみの板挟み人生
使徒にとって、キリストを信じて生きる人生を凝視したときに「二つの・・・板挟み」でした。彼にとって喪失というものはなく、一切が「益」となり「実」となるのです。私たちも与えられている恵みを凝視して、生も死も、何事も恐れず、むしろ喜びとして日々歩みましょう。
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