09/09/27 開け エパタ マルコ7:31~37
・耳と口が閉ざされた者
主イエスがデカポリス地方に行かれたときに「耳が聞こえず、口がきけない人」が連れてこられました。「耳が聞こえない」と言うことは、外界の音と言葉から閉ざされていることであり、「口がきけない」ことは、自分の言葉を外に伝えることができないと言うことです。全く、世界から閉ざされた世界に放置され、隔絶されていることです。
・その人だけを連れ出して
主イエスは「その人だけを連れ出して」、深いお取り扱いをします。一人だけ取り出されることは、神との関係を深め、救いを深めるために大切な手順です。
「両耳に指を差し入れ」「唾をして、その人の舌にさわられた」と閉ざされた部分に深く関わって下さいます。耳と口が開かれるためには、イエスに深く関わっていただかなければならないのです。イエスは汚れもいとわず、その人を徹底的に愛して御業をなすのです。
・開け/エパタ
「深く嘆息し」「『エパタ』と言われた」。嘆息とは「うめき」とも訳されます。エパタは「開け」という意味です。ヘブル語の「パタ」の命令形です。イエスの言葉に不思議な響きがあったので、言語のまま紹介されています。イエスが「開かれる」ことを心から願って叫ばれたことが分かります。
さらにこの奇跡はイザヤ35:5の預言の成就となっています。ただ肉の耳だけでなく、心の耳、口もイエスの臨在と恵みに「開かれ」るべきことが示されています。
・イエスの愛に開け/エパタ
私たちの心の耳と口も閉ざされがちです。主イエスが私たち一人一人をも「連れだし」、親密に関わって臨在と恵みを知らせようとしていることに霊の耳を開き、口によって証する者となりましょう。
09/09/20 主の聖徒たちの死は尊い 詩116:15
・主の聖徒たち
「聖徒」とは「ヘセドの民」という意味です。神の恵み、誠実、愛の約束を心から信じ、自分でも神を愛して生きる人々のことです。旧新約の信仰者たちは、皆、この信仰姿勢を持っていました。
「私は主を愛する。主は・・・私の願いを聞いて下さる」とは聖徒たちの基本的な告白です。聖徒たちはその通りに生涯、主の恵みと愛を体験してきました。たとい絶体絶命の時でも、主が救って下さり、魂を救い、悲しみを取り除き、実際の問題も見事に解決して下さったことを体験しています。
・主の聖徒たちの死は尊い
「聖徒たちの死は主の目に尊い」とあります。聖徒たちも地上の生涯を終えることがあり、その際には、本人も周囲の人々も、主イエスをいよいよ信じて、告白して、死の間際まで切なる願いをします。
その死は、肉の目には空しく見えますが、主は「尊い」とご覧になります。それも主の恵みと愛の所以です。地上の生涯に恵みを与えられた方は、死という危機に際してこそ、完全なる恵みと愛の眼差しを「聖徒の死」に向けられるのです。地上の死を迎えた「聖徒たち」は主の目には何よりも尊い宝石のように輝いて映っているのです。
・私たちの「聖徒たち」
私たちの「聖徒たち」も地上の生涯において主の恵みを信じ、また自分でも誠意を持って従っていました。死の間際まで、信仰を貫き、しかも切に祈りと願いを捧げたのです。
主は、その祈りを忘れておられません。むしろ「尊い」とご覧になり、永遠に心に刻んでおられます。そして来るべき日に、新しいからだに復活させるのです。復活の体もまた、イエスに似た「尊い」ものとなるのです。
09/09/13 生きるはキリスト ピリピ1:21
・キリストにある「私」
私たちは人生の色々な局面で、地上の益と喪失のどちらかを体験します。古い「私」は益が良し、喪失を苦痛と感じます。その最たる局面は生と死です。
しかし使徒パウロはキリストによって新しくされた「私」として人生を捕らえるべきであると教えています。
・生きるはキリスト
「生きることはキリスト」とあります。キリストはすべてであるということです。御言葉の約束において、キリストは「私」の罪を赦し、新しい生命を与え、「私」の生涯に豊かな実を与えてくださる方です。
使徒はキリストにあっての提供されている恵みをただ知っているだけではありませんでした。自分自身でも心から信じて、キリストを人生の土台としていくという告白をしています。キリストの恵みは単に受け取るだけではなく、私たちの側でも応答することでハッキリと分かるのです。
・死ぬことも益
一般的に「死」は大きな苦痛と捕らえられます。それは地上で得た一切を喪失する時と考えられているからです。しかし使徒は「益です」と言い切ります。私たちは生きている楽しみを覚えるのは「益」を獲得ているときです。ところがキリストにあるものにとって死こそ最高の「益」の「獲得」であることを示します。その理由は死によって完全にキリストを獲得し、その愛の御顔を直視できるからです。
・楽しみの板挟み人生
使徒にとって、キリストを信じて生きる人生を凝視したときに「二つの・・・板挟み」でした。彼にとって喪失というものはなく、一切が「益」となり「実」となるのです。私たちも与えられている恵みを凝視して、生も死も、何事も恐れず、むしろ喜びとして日々歩みましょう。
私たちは人生の色々な局面で、地上の益と喪失のどちらかを体験します。古い「私」は益が良し、喪失を苦痛と感じます。その最たる局面は生と死です。
しかし使徒パウロはキリストによって新しくされた「私」として人生を捕らえるべきであると教えています。
・生きるはキリスト
「生きることはキリスト」とあります。キリストはすべてであるということです。御言葉の約束において、キリストは「私」の罪を赦し、新しい生命を与え、「私」の生涯に豊かな実を与えてくださる方です。
使徒はキリストにあっての提供されている恵みをただ知っているだけではありませんでした。自分自身でも心から信じて、キリストを人生の土台としていくという告白をしています。キリストの恵みは単に受け取るだけではなく、私たちの側でも応答することでハッキリと分かるのです。
・死ぬことも益
一般的に「死」は大きな苦痛と捕らえられます。それは地上で得た一切を喪失する時と考えられているからです。しかし使徒は「益です」と言い切ります。私たちは生きている楽しみを覚えるのは「益」を獲得ているときです。ところがキリストにあるものにとって死こそ最高の「益」の「獲得」であることを示します。その理由は死によって完全にキリストを獲得し、その愛の御顔を直視できるからです。
・楽しみの板挟み人生
使徒にとって、キリストを信じて生きる人生を凝視したときに「二つの・・・板挟み」でした。彼にとって喪失というものはなく、一切が「益」となり「実」となるのです。私たちも与えられている恵みを凝視して、生も死も、何事も恐れず、むしろ喜びとして日々歩みましょう。
09/09/06 小犬でも マルコ7:24~30
・ギリシャ人の女
イエスが異邦人の地であるツロに行かれたとき、ギリシャ人の女が来て、娘から悪霊を追い出すように願い続けました。悪霊を追い出すことは人間の力では不可能でフェニキヤ文明もにもギリシャ文明も無力でした。そこで女はイエスの噂を聞き、キリストと信じてやってきていたのです。
・イエスの拒絶・・・小犬には
ところがイエスは女に対して沈黙しているように見えました。さらに「・・・子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と拒絶します。「子供たち」とはユダヤ人のことで、小犬とはギリシャ人をはじめとした異邦人のことです。聖書では「犬」を汚れた者、俗悪な者を意味します。そこで「小犬」は、さらに存在の小さいものと受け取ることができます。
・女の信仰・・・小犬でも
しかし女は「小犬」という言葉に、イエスの恵みを見つけます。「食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」
自分を見るのではなく、イエスのあわれみの大きさに訴えて切に願っています。
神の大きさと恵みによって救いを受ける手段に訴えて願ったのです。それこそがイエスの救いを受ける唯一の手段です。
・「そうまで言う・・・」
女の信仰にイエスまでが驚いています。「そうまで・・・」言い「そうまで」信じて、祈る祈り手を主は求めていたのです。
私たちも祈りがすぐに答えられない、「無視され、拒絶されているのでは」という経験をしますが、それでやめてはなりません。祈り続ける中で、私たちが「そうまで言う」「そこまで信じて」祈る祈り手になることを、主イエスは願っておられるのです。
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