09/06/28 長血女の信仰 マルコ5:25~34


・12年の間長血の女
 「12」とは女の長血ゆえの痛み、辛さ、惨めさ、絶望感のすべてが象徴されています。はじめ幾らかの財産があったのですが、治療費で一切を使い果たしてしまいました。しかも長血は宗教的にも不浄とされる病でしたから、その間家族からも社会からも疎外されていました。罪と死の辛苦の一切を背負った女だったのです。

・女の信仰・・・近づく信仰
 人間の救済手段に絶望した時に、女の心にイエスに対する信仰が生じました。小さいのですが確実な信仰です。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と。イエスの回りには大勢の人々が押し迫っていたのですが、この女だけがイエスに近づいたのです。イエスに近づく唯一の手段は信仰と言うことです。

・イエスを知り知られる信仰
 さらに長血女だけがイエスを知ることができました。それも信仰によります。女は「直ったことを・・・感じた」と。「イエスも・・・気づいて」とあります。どちらも「知る」と直訳できます。全人格的に深く知り、交わりが生じたのです。しかもイエスの「知る」は深く明瞭です。
 私たちの場合もイエスを全人格的に知り交わりをもつ手段は「信仰のみ」です。
 
・救いの信仰
 「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。」イエスは女に癒しの手段が信仰であったことを明示していますが、同時に死と罪の力から救う唯一の手段も「あなたの信仰」であることを明示しています。「直した」は「救った」です。
 私たちは色々な手段で困難を乗り越えようとしますが、何よりも「あなたの信仰」が「あなたを救う」ことをよく覚えたいものです。

09/06/14 ゲラサ人の地で マルコ5:1~20


・ゲラサ人の地で
 ゲラサ人の地はギリシャローマ文明の地で宗教的には汚れた地でした。神なき世界では悪霊が跋扈(ばっこ)します。墓場から出てきた「汚れた霊」の人は、悪霊に翻弄されて悲惨な中にありました。「彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた」のです。地の人は誰も彼を悪霊から解放することができませんでした。

・悪霊の軍団レギオン
 レギオンとは数千人の兵士からなるローマ正規軍のことです。それだけの多くの悪霊が一人の人の心と魂に駐屯し陣取っていました。神のかたちに似せて創られた人の心の深さ大きさを覚えます。それ故悪霊に陣取られた場合には一層悲惨です。
 レギオンを宿す人は、あらゆる異教文明に存在します。神なく真理を失った人々の心には容易に悪霊どもが巣を作り翻弄することができるのです。それは現代日本も例外ではありません。

・イエスの救い・・・一人の救いの尊さ
 イエスは悲惨な人から御言葉と霊により悪霊を追い出します。事実、二千匹の豚を滅ぼす程の悪霊どもが出て行きました。この人は正気になり、イエスによって新しい人聖霊の人に変えられました。聖霊の人はその地の神の要塞です。彼はデカポリスの地方でイエスを証ししました。
 イエスは一人一人が徹底して改心することを願っておられます。一人であっても悪霊の巣から御霊の人となることは尊いことで、彼を通して神は偉大なことをなすことができるのです。

09/06/07 心のガリラヤ湖 マルコ4:35~41

・ガリラヤ湖の嵐
 イエスは弟子たちに「さあ、向こう岸へ渡ろう」と語られました。そこで彼らは舟で出発しました。しかしガリラヤ湖は気象に影響されやすく一日の内でも湖面の状態が急変することがあります。この時も「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって」危機的状態になりました。
 イエスは「枕をして眠っておられ」危機に関知しないように感じられ、弟子たちはパニックになりました。

・心のガリラヤ湖
 この状態は私たち信仰者の姿です。主イエスの約束を信じて信仰生活をはじめ目的に向かって進んでいます。ところが「突風が起こり」危機を覚えることがあります。この時に、私たちは信仰を失ってパニック状態になることがあります。それが心のガリラヤ湖です。何もないときは穏やかなようでも、少しの突風で激しく荒れた状態になるのです。

・信仰をもつこと
 主イエスは「信仰がないのは、どうしたことです」と弟子たちをしかりました。同じように、私たちを叱責しておられます。それは主イエスが私たちに対して求められる信仰は「イエスの言葉は必ず実現する」という信仰です。「主イエスが向こう岸に渡ろう」と語られたとき、目先の事態がどう急変しようとも、心まで荒れた状態にする必要がありません。むしろ信仰を堅くたもちたて琴のように穏やかに神を讃えていたいものです。

*ガリラヤ湖の別名キンネレテの海=竪琴の海

09/05/31 からし種と神の国 マルコ4:30~32


・からし種と神の国
 「神の国は・・・からし種のようなもの」とあります。からし種は直径0.5ミリでゴマの1/5ほどの小ささです。どのような野菜の種よりも小さく、その生命力もちっぽけなものに過ぎないと錯覚しがちです。しかし成長するとどの野菜よりも格段に大きくなり3~5メートルに達します。空の鳥も巣を作れるほどです。

・神の国の小ささと大きさ
 神の国も外見は小さくとるに足らないもののように見えます。言葉に過ぎないこと、十字架の躓きが伴うこと、そこに信仰だけで入れるという手段も頼りないもののように感じられます。
 しかし外見に囚われずに御言葉を信じて忍耐して育み育てていくときに、それは世のどのような人、団体、民族も太刀打ちできないような格段に大きな存在となります。世のものは滅びさるのに、神の国は永遠という格段の対比があります。

・神の国と生命の御霊の原理
 また御言葉には神の力、すなわち生命の御霊の原理が働きます。「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放した」ローマ8:2とあるとおりです。世の生命力も営みも一切は罪と死の原理の中で滅び去ります。しかし神の国の種を宿す者たちには生命の御霊の原理が働き神の力と愛が注がれ永遠の生命に至ります。
 神の国の大きさは世の終わりにならないと分からないのではなく、今の時にも心に宿る御言葉の約束を深く覚えるときに明瞭に味わうことができるのです。