09/05/24 「悪い地 良い地」 マルコ4:1~20
・種まきのたとえ
主イエスは神の国を種まきのたとえで話します。たとえは神の国に入れられる人と除外される人とを見事に分離する作用をします。つまり良く聞いて悟ろうとする者は神の国に入れられ、聞き方に注意しない者は除外されます。神の国は言葉によって、私たちの外からもたらされるものだからです。
種まきのたとえはその典型であり、3つの悪い地は聞き方の悪い者たちを暗示し、聞き方の良い者は良い地にたとえられています。それは初めから決定しているのではなく、聞く者の不断の姿勢によって決定していきます。
・悪い地
悪い地の初めは道ばたです。道ばたはむき出しになり堅く種が根を伸ばす余地はありません。御言葉を聞いても全く受け入れようとしない人にたとえられています。サタンが鳥のようにやってきて、救いの言葉を取り去ります。
岩地は聞いてすぐに喜んで受け入れる人のことです。御言葉が心でも受け入れるのですが、表面でしか受け入れていないのです。その結果、外界の要因に簡単に左右され困難が来たとき、御言葉と神の国を捨て去ります。
いばらの地は御言葉を受け入れてある程度、神の国を養い育てる人です。ところが悪い種である世の欲、世のしがらみ、名誉欲なども潜んでいるです。そのままでは神の国も生命も実を結ぶことはありません。
・良い地
良い地とは「みことばを聞いて受け入れる人」のことです。心に深く根ざし生活の隅々で成長していき、遂に実を結ぶのです。人の場合は、初めから良い地はありません。日々の信仰の従順と戦いの中で悔い改めつつ心を深耕し根をし、御言葉にある祝福を信じ通して遂に神の国の実を結ぶのです。その祝福は地上の生命と比較して量的質的な飛躍です。
ヨナ書より「神の愛を知る 」
ヨナは神によってニネベ宣教を委ねられますが、「御顔を避けて」海の向こうの町タルシュシュに船で逃げようとします。神は嵐を起こします。水夫たちは天地創造の神がヨナを怒っていると知り、ヨナを海に投げ込みます。
ヨナは大きな魚にのまれ、三日三晩腹の中で苦しみ、悔い改めの祈りをします。再び神はニネベ宣教を命じます。ニネベの人々はヨナの予想とは異なって悔い改め、彼らは神の怒りから救われてしまいました。ヨナは怒りました。
神はヨナがご自分と同じような心で異邦人の町ニネベを愛することを願っていました。そこでまた虫に命じて、ヨナの日陰となっていたトウゴマを枯れさせました。ヨナは当然のように神に対して怒りますが、優しく神の思いを伝えて諭したのでした。神は周囲の万象を通して私たちに語られます。私たちも神の語りかけに心を傾けましょう。
ヨナの物語スライドショー↓クリックしてください
ヨナは大きな魚にのまれ、三日三晩腹の中で苦しみ、悔い改めの祈りをします。再び神はニネベ宣教を命じます。ニネベの人々はヨナの予想とは異なって悔い改め、彼らは神の怒りから救われてしまいました。ヨナは怒りました。
神はヨナがご自分と同じような心で異邦人の町ニネベを愛することを願っていました。そこでまた虫に命じて、ヨナの日陰となっていたトウゴマを枯れさせました。ヨナは当然のように神に対して怒りますが、優しく神の思いを伝えて諭したのでした。神は周囲の万象を通して私たちに語られます。私たちも神の語りかけに心を傾けましょう。
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09/5/10 「痛みと祈り」 1サムエル1:9~11
・心の痛み
ハンナは子どもが生まれないということで心の痛みを覚えていました。その痛みは夫も癒すことができず、ただ神によってのみ癒されるものでした。
出産ということだけではなく子育てにおいても、母の「心の痛み」「憂いといらだち」があります。子どもを愛しているゆえの痛みですが、それも神のみが癒すことができる心の痛みです。神は母の痛みを通して、深い交わりを求めているのです。
・祈りで心の痛みを打ち明ける
ハンナは「主に祈って、激しく泣いた」とあります。神の前で自分自身の痛みをそのままにさらけ出したのです。神と深く交わるためには、自分の心の痛みを認めて、「注ぎ出す」ことが大切です。
私たちが神の前に痛みをさらけ出すときに、神の霊も共鳴するように「深いうめき」「私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ8:26)
また御霊の導きの中で、神と深い慰めを得ることができます。神御自身が痛みを知る神だからです。(Ⅱコリント1:4)
・祈りを通して聖められる
「私はその子の一生を主におささげします」とあります。ハンナは祈りの中で自分も自分に与えられる子どもも一切を神にささげました。
母の心の痛みには、自分の欲も絡んでいる場合があります。私たちの欲は神に受け入れられません。そこで祈りの中で欲を焼き尽くして、聖められた願いとすることが大切です。それは神にささげるという姿勢で可能となります。その時に私たちの思いはきよめられて、神に受け入れられる祈りとなります。
ハンナは子どもが生まれないということで心の痛みを覚えていました。その痛みは夫も癒すことができず、ただ神によってのみ癒されるものでした。
出産ということだけではなく子育てにおいても、母の「心の痛み」「憂いといらだち」があります。子どもを愛しているゆえの痛みですが、それも神のみが癒すことができる心の痛みです。神は母の痛みを通して、深い交わりを求めているのです。
・祈りで心の痛みを打ち明ける
ハンナは「主に祈って、激しく泣いた」とあります。神の前で自分自身の痛みをそのままにさらけ出したのです。神と深く交わるためには、自分の心の痛みを認めて、「注ぎ出す」ことが大切です。
私たちが神の前に痛みをさらけ出すときに、神の霊も共鳴するように「深いうめき」「私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ8:26)
また御霊の導きの中で、神と深い慰めを得ることができます。神御自身が痛みを知る神だからです。(Ⅱコリント1:4)
・祈りを通して聖められる
「私はその子の一生を主におささげします」とあります。ハンナは祈りの中で自分も自分に与えられる子どもも一切を神にささげました。
母の心の痛みには、自分の欲も絡んでいる場合があります。私たちの欲は神に受け入れられません。そこで祈りの中で欲を焼き尽くして、聖められた願いとすることが大切です。それは神にささげるという姿勢で可能となります。その時に私たちの思いはきよめられて、神に受け入れられる祈りとなります。
09/5/3 「大庭を慕う」 詩篇84
・大庭を慕う
神は自然界に生命と自由の空間を与えているように、私たちの魂のためにもそれを備えておられます。「主の大庭」とはエルサム神殿にある庭のことですが、そこは礼拝の場で人々の魂が生命と自由を得る場でした。旧約の詩人はそこで神に礼拝することを切望し恋い慕っていました。
この「大庭」は主イエスによって成就したキリスト教会の礼拝の場の予型です。私たちはキリストによって成就した「大庭」で霊とまことによって礼拝をささげることが許されています。
・礼拝者は生涯に恵みと力を受ける
「何と幸いなことよ」と礼拝者について祝福を約束しています。神は真の礼拝者を求めておられます。神は彼らの礼拝をかぐわしい香りとして受け入れ、彼らの地上の生涯に幸いを与えます。「涙の谷」の経験も「泉のわくところ」となります。彼らを覆っているのは神の恵みと力で、彼らの歩みは神に支えられて力強いのです。
・礼拝は、千日にまさる一日
さらに礼拝する時間は一時ですが、地上の楽しみの時間と質的な優位があります。地上の楽しみはやがて過ぎ去りますが、礼拝の時は永遠につながります。「あなたの大庭にいる一日は千日にまさります」とあるとおりです。
旧約の民は樹木の生命力を羨望しましたが、新約の民はそれ以上の生命と自由の養いの場を与えています。私たちは礼拝の価値を心に覚え、旧約の信仰者以上の「慕う心」「霊とまこと」をもつ礼拝者となりましょう。
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