2020/7/26 ルカ福音書5:36~39

・「新しい」「古い」の不一致
 イエスはご自分がもたらした新しい救いについて2つのたとえを用いて語ります。一つは「着物の継ぎのたとえ」のたとえ、もう一つは「ぶどう酒と皮袋」のたとえです。 どちらも新しいものに古いものは合わないことを示しています。そして結論として「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません」と明言します。

・新しいぶどう酒 新しい皮袋
 主イエスがたとえる「新しいぶどう酒」とはキリストの救いを示しますが、具体的には昇天後にくだされる御霊です。御霊はキリストの心であり、神を慕い神に向く「子としての霊」です。そして御国相続の証印であり、地上に置いて「愛、喜び、平安」など豊かな実を結びます。地上の人々の想像を超えた「新しい救いの霊」です。
 「新しい皮袋」は信仰であり、他は必要とされません。それは形にとらわれない心の器であり、実に柔軟です。それ故に、どこの誰でも持つことができる器です。

・徹底して信仰
 しかし地上に生きる者は、初め信仰でもって始まったとしても、次第に外見や形式の信仰生活に退化する危険が伴います。それは私たちも、例外ではありません。そこで絶えず初心に立ち戻ると同時に、初めの信仰をどこまでも徹底していく姿勢が大切です。
 その模範はアブラハムですが、彼の信仰の生涯は「信仰がますます強くなって」(ローマ4:20)と証言されています。

2020/7/19 ルカ福音書5:33~35 花婿と友だちたちのたとえ

・パリサイ人とヨハネの弟子たちの批判
 パリサイ人とヨハネの弟子たちはイエスの弟子たちが断食をしないで、宴会を楽しんでいる様子を見て非難します。彼の場合も、ユダヤ社会も敬虔な生活のために断食と祈りは不可欠なものだったからです。

・花婿と友人
 それに対して、主イエスはまず花婿と友人たちのたとえで答えます。当時「花婿に付き添う友人たち」は、請願などをして断食をすることになっていたとしても、その禁欲よりも、花婿の祝福に伴う喜びが優先されました。ちょうどそのように、花婿キリストにともなう従者たちは、一切の禁欲から解放されて、喜び祝うことが優先されるということです。

・内なるキリスト
 花婿キリストの臨在は、キリスト昇天後に注がれた御霊の内住によって実現しました。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」とガラテヤ2:20とあるとおりです。

・喜びの優先
 これらのたとえが示すことは、私たちはかつて血肉の生命の中に生きていましたが、そのときには禁欲などで罪の性質を抑えることが必要でした。しかし、心からキリストを第一の友として信じることで、御霊の生命を受けているということです。この新しい生命のもとでは、心の中からの自発的と喜び、そして愛の動機が大切になるということです。

2020/7/12 ルカ福音書5:27~32 悔い改めへの招き

・レビの召命
 主イエスは収税所にすわっているレビに目を留めて「わたしについてきなさい」と召命を与えます。レビは「何もかも捨てて」イエスに従いました。それはイエスの弟子としての召命でしたが、同時に生涯に渡って、古い人を脱ぎ新しい人を着るという、悔い改めの招きでした。

・レビの宴会で
 レビは家でイエスのために大ぶるまいをした時、仲間の取税人たちも招きました。それを見たパリサイ人らは主イエスが罪人たちと一緒に食事をするということで非難しました。それに対して主イエスは「医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人です…」と語り、ご自分と集団(教会)の関係について語ります。つまり主イエスとその集団の関係は、絶対的な癒し手と魂の病を自覚した者たちの関係と語ります。

・悔い改への招き
 「…私は正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために来たのです」とあります。 
 「罪人」とは取税人たちのことですが、それだけではなく全て自らを「正しい人」とみなして高ぶり、他者を裁く人のことです。主イエスはすべての人をご自身のもとに導き、悔い改めへと導き後としておられます。そして最終的に「傲慢の罪」からも救済します。

2020/7/5 ルカ福音書5:17~26 中風の人の癒やし

・中風の人と4人の友
 主イエスがある家で福音を語っていた時、そこに方々から律法学者やパリサイ人たちがやってきて席を陣取っていました。その周囲には群衆が溢れかえっていました。
 そこに男たちが中風の人を床のまま運んできて「なんとかして家の中に運び込み、イエスの前に置こう」とし、家の屋根に穴を開けて天上から中風の人をイエスの前につり下ろしました。

・あなたの罪は赦された
 彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました」と言われました。中風の人の求めていたことは、罪の赦しでしたが、また主イエス到来の目的もそれでした。それは神のみがなし得る恵みです。主は…咎とそむきと罪を赦す者」出エジプト34:6と啓示されているとおりです。
 主イエスは中風の人を「起きて歩け」と命じて癒やされますが、それはご自身が持つ罪の赦しの権威を証明するためでした。

・大胆に恵みの御座に
 ヘブル人の手紙4:16に「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」とありますが、私たちも中風の人の友人たちのような信仰を持って進み出て自分の家族友人を主イエスの御元に導きましょう。

2020/6/28 ルカ5:12~16 ライ病人のきよめ

・全身のライ病人
 主イエスがある町にいたときに、全身病人の人が、イエスの前にひれ伏して「聖め」を求めます。ライ病とは旧約聖書ではツァラットと呼ばれ、病気であるだけではなく、宗教的な汚れとされ、人との接触を禁じられ、さらにユダヤ人社会から排斥されていました。
 全身らい病人は自分の汚れを認識していましたが、あえてイエスを神からの救い主と信じて、ひれ伏してきよめられることを求めたのです。

・ライ病人のきよめ
 主イエスは、自分の汚れをさらけ出して求めるらい病人の信仰に動かされて「手を伸ばして触り」「私の心だ。きよくなれ。」と語り、聖め癒やされました。

・私たちのきよめ
 この全身らい病人の場合は、ただ肉体の病気のきよめと癒やしにとどまりましたが、主イエスがこの出来事を通して、私たちに示そうとしているのは、罪のきよめです。罪は隠れており、私たちは自分の心の罪に気が付きません。そのままではただ滅ぶだけです。
 そこで主イエスが願っておられることは、私たちもまた全身らい病人のように心が罪に汚れていることに気がつくことです。そうして主イエスの前に「砕かれた、悔いた心」によって「きよめ」を求めることです。