2020/33/22 コロサイ3:12~14 愛は結びの帯


・神に選ばれたものとして…
 パウウロは繰り返して信仰者のアイデンティティを強めます。「神に選ばれた者」とは、旧約時代はイスラエル人でした。しかしそれは影で、本体はキリスト信仰者です。彼らこそ「選びの民」として神がくださる新しい服を着るべきです。「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」がそれです。

・主が…ように
 「互いに忍び合い…互いに赦し合いなさい」とあります。人は互いに異なった立場と意見を持ち、しかも罪人ですから、互いに不満や不平が起こってきます。しかし「主が…赦してくださったように」互いに、忍び合い、赦し合うことが要求されます。互いの交わりの中で、主イエスに向き合い、その赦しを知るようになるのです。

・愛は結びの帯
「愛を着けなさい」とあります。愛は新しい人の服の中で、最高のものです。古い人は自己中心ですが、新しい人は、自己を捨てて友を愛する愛で、新しさが際立ちます。また「愛は結びの帯として完全」とあります。帯もまた、見栄えがするものですが、同時に互いを結びつける役割をします。愛によって、新しい人の群れは一致と調和をもち、キリストの体として地に立つことができます。

2020/3/15 コロサイ3:5~11 ますます新しい人に


・地上のからだの諸部分を殺す
 「地上のからだの諸部分」とは、「古い人」の罪の性質を意味し、「不品行、汚れ、情欲、悪い欲…むさぼり」は典型です。それらを「殺してしまいなさい」と強い語調で語ります。地上の生活では、どうしても古い性質がつきまといますが、それらは亡霊のようであって、ただ断ち切るのが一番です。

・恥ずべきことばを捨てる
 「怒り、憤り、悪意、そしり…恥ずべきことば」とは、私たちの心のうちから吹き出し、口を通して出てくる罪悪です。それらも「古い人」の性質で、「新しい人」には、そぐわないものです。それらは絶えず湧き出してきますが、そのたびに、決然とした気持ち[捨ててしま」うべきです。特に教会の交わりでは、捨て去るべきです。

・ますます新しい人に
 「新しい人は…ますます新しくされ」とあります。私たちはキリストを信じた時に、すでに「新しい人」にされました。しかし地上においては、絶えず、まとわりつく「古い人とその行い」を古着のように捨てること。そして「新しい人」として「新しい服」を着る必要があります。日々「ますます新しくされ」ていくのがほんとうの意味の「新しい人」だからです。

2020/3/8  コロサイ3:1~4 天にあるものを思う

・天にあるものを思う
 使徒パウロは、信仰者がキリストと共に死んで復活したという霊的事実に基づいて、勧めをしています。「上にあるもの求める」「天にあるものを思う」とは、キリスト者は新しい人とされているので、新しい人にふさわしいものを求めるようにとの勧めです。また「思う」とは意志的に自分の生き方とすることです。

・生命は神のうちに
 私たちの新しい生命について「キリストとともに、神のうちに隠され」とあります。目には見えないが、神のもとで大切に守られているという意味です。地上では、私たちは罪と死の力にさらされ続けますが、私たちの生命自体は、決して損なわれることがないのです。

・「栄光の時」に向かう
 「キリストが現われる」時とは再臨です。その時に救いが完成し、地上の罪と一切が滅び去るのです。しかし新しい私は「キリストとともに、栄光のうちに現われ」とあります。私たちの新しい生命は、今のときには天で守られ、未来において完成して現れるのです。
 自分のアイデンティティは「他人との関係の中で配給される」のです。多くの人は、この「他人」が不明確ですが、私たちはキリストとの関わりでアイデンティティを持ち、天を思い、未来に向かって力強く進んでいきましょう。


2010/3/1 コロサイ2:16~23 キリストに結びつく…本体と影

・本体はキリスト
 異端の教師たちは、外面的なタブーや日を特別視するよう教える人々でした。しかしパウロは、それは影であると語ります。つまり目に見える律法規定は、それ自体は実体がなく、本体であるキリストを指し示すためのものだということです。
 人は、本体を外面的なものに求めますが、聖書では、「本体」は目に見えない存在であり、ただ福音を通して啓示されたキリストであることを一貫して示すのです。

・見栄えと偽りの宗教
 パウロは繰り返して、異端の教師たちの誤りを指摘します。自己卑下、御使い礼拝、幻など、彼らの常套手段をリストアップしています。これらは一見、霊的に見える礼拝の姿ですが、実体は人間の視覚、見栄え、感覚、軽薄さに訴えて、欺くものです。形と言葉はきらびやかでも、肉であり、虚偽の宗教としています。

・キリストに結びつく
 パウロが繰り返し語ることは、本体であり、かしらであるキリストに結びつくことです。それはただ全面的な信仰と献身によって可能です。「このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。」
 私たちも一人一人がキリストに繋がり、キリストのからだである教会を成長させていただきましょう。