2015/2/22 ヨハネ福音書12:35~50 光がある間に



・光がある間
 主イエスは肉体を取って、世に到来しました。彼は神を完全に現す方でしたが、そのようなご自分を「光」と表現します。確かに、主イエスはこの世で唯一の光で、彼によってのみ神とその救いが明らかにされました。しかし彼が地上でいる期間は限られていました。

・闇が襲うことがないよう
やみがあなたがたを襲うことのないように」とあります。この世は闇が支配する世界で、その力は強く、少しだけ主イエスを知っているという程度では、どのような人も闇の支配に陥ります。
 また闇とは結局、「神の栄誉」よりも「人の栄誉」を求めさせる力です。イエスの時代の人々の多くは、イエ
スの奇跡を見て、光を垣間見たのですが、人の栄誉の方を重んじていたので、闇に飲まれてしまうのです。

・光を信じる
 現代において、主イエスは御言葉をとおして光として私たちのうちに輝いています。また祈りと賛美と礼拝の中にも霊的な光として臨在しています。このような意味での光も、いつまでもあるものではありません。世の闇は深く強く、いつその光がある生活から、闇に引き落とされるか分からないのです。
 そこで私たちは「光がある間に…光を信じる」べきです。主イエスを信じる者のうちには、神の生命である光が宿るので、決して闇に陥れられることがないのです。

2015/2/15 ヨハネ福音書12:27~34 栄光の時



・十字架の時
 主イエスは「十字架の時」を前にして「心騒いで」います。「その時」は現象だけで判断した時に、敗北と悲惨だけの時のようにみえるからです。しかし「その時」こそ旧約新約を通じて啓示されている神の救いの頂点でした。そこで、主イエスは「その時」を克服しようとしておられるのです。

・栄光の時
 弟子たちに対して十字架の時が神とイエスの栄光の時であることを明確に示します。栄光とは神が神として明らかにされることであり、神がすべてに対して勝利者として現されることです。地上では神の栄光が見失われていますが、十字架の時に、それが明瞭に啓示されるのです。

・裁きの時
今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。」とあります。「この世を支配する者とは悪魔のことであり、悪魔は罪と死によって人を支配しています。主イエスは十字架の上で肉によって悪魔を完全に裁きます。その結果、悪魔は主イエスにつく人々に対して、何の力も発揮できなくなります。

・引き寄せられる
 私たちは十字架の時を絶えず覚え、その意味をしっかりと心に刻むべきです。使徒ペテロは、イエスの十字架に引き寄せられ、次のように証ししています。
 「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された」1ペテロ2:24

2015/2/8 ヨハネ福音書12:20~26 一粒の麦



・栄光の時
 主イエスはギリシャ人が来たとき「栄光を受けるその時が来た」と語られました。「その時」とは、神が備えられた時で、旧約以来の預言されてきた十字架による贖いが成就する時を意味します。それによって、単にユダヤ人だけではなく、全世界の人々に救いと永遠の生命が提供されることが定められていました。

・一粒の麦
 「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければとあります。主イエスは、一粒の麦にたとえて、十字架の死の意味を示します。主イエスには、永遠の生命が宿されていましたが、地上の生命に固執している限り、他の人々には提供されることがありませんでした。ただ「地に落ちて死ぬ」ことをとおして、その生命は世の人々に分け与えられることになるのです。

・私たちの生命
 私たちがキリスト信仰者にも同じ原理が当てはまります。私たちには生まれながらの生命(プシュケー)を持っていますが、他方、キリスト信仰によって永遠の生命が与えられています。その二つが相剋したとき、私たちが地上の生命(プシュケー)に固執して神に従うことを拒むならば、それを失います。しかし、神に従うことを優先して、それを憎むならば、それを保ち、さらにはよりすぐれた永遠の生命(ゾエー)を獲得するのです。

2015/2/1 ヨハネ福音書12:20~26 ロバの子に乗った王



・エルサレム入城
 主イエスがエルサレムに入城したとき、大勢の人々は「しゅろの木の枝を取って」迎え入れました。それは主イエスを王として、あるいはキリストとして迎え入れるデモンストレーションでした。

・喜びと讃美
 この出来事はゼカリヤによって預言されていたことでした。そこに「恐れるな。シオンの娘よ。見よ。あなたの王が来られる…」とあります。
 人々は罪ゆえに、神に対して恐れを感じていましたが、キリストは、裁きのために到来するのではないので、恐れることはないと言うことです。むしろ「喜び」と「讃美」がふさわしいのです。

・ロバの子に乗った王
 また「…ロバの子に乗って」とあります。異邦人世界では王は力と権力を誇示して馬を用います。乗馬や馬車です。しかし主イエスは「ロバの子」に乗りました。それは民に親しむ王、民に仕える王としての姿です。実際に、主イエスは人々の罪の身代わりとして十字架の道を進んでいきます。そして最後の敵である死に対して勝利します。

・シュロの葉を持ち
 現代も、主イエスは救い主として、罪と死の勝利者として、教会に到来します。私たちもまた、彼を信じ受け入れ、「しゅろの木の枝」を手に持って、心から喜び、讃美すべきです。