2014/9/21 ヨハネ福音書10:11~15 わたしは良い牧者



・わたしは良い牧者
 主イエスは「わたしは良い牧者です」と語ります。それは絶対的で唯一の良い牧者という意味です。その良さは、羊を愛する心を持つことですが、また外において現される業でも示されます。それは「羊のためにいのちを捨てる」ことです。つまり主イエスが、十字架上で、民の罪のための贖いとして死ぬことです。

・自分のいのちを捨てる
 また、主イエスが「自分のいのちを捨てる」ことは、父の愛を確かにし、祝福を獲得する機会となります。それによって、彼は「自分のいのちを再び得」、彼に連なる民もまた新しいいのちを得ます。
 さらに、彼の死について、地上の権力者と悪魔の力に敗北したような錯覚を抱くことがあります。しかしそうではなく、彼自身が神の子として自分の権威でいのちを捨て、また自分の権威で復活しているのです。そして、今の時には、生殺与奪の権を持ち、私たち民のいのちは、いつも保たれるのです。

・最高の愛に生きる
 私たちのために「自分のいのちを捨て」、絶対的権威を持つ救い主を持つ私たちは、何者も引き離すことができない絆で生かされています。この霊的幸いをしっかりと覚え、変転極まりのない人生にあっても、「どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」と告白して歩みましょう。

2014/9/14敬老の招待礼拝 Ⅱコリント4:16~18 日々 新たに



「外なる人は衰え」
 「外なる人」とは、アダム由来の古い人と言うことです。神の形に似せて創造されましたが、その本質は土から造られた存在で、「衰える」ものです。私たちは年齢を重ねていくとき、「外なる人は衰える」ことを実感します。足腰の衰え、記憶力の衰えなど、あげたら切りがありません。

・「内なる人は日々新たに」
 「内なる人」とは、私たちの心の内に信仰によって誕生した「人」です。それは「新しい人」でキリストに似ており、神の力と恵みによって生かされる存在です。また「外なる人」とは異なり、「日々新たに」されていくという性質を持ちます。

・重い永遠の栄光
 「内なる人が新たに」される機縁は、「外なる人」が衰える(=患難)を経験するときです。そこに、神が働いてくださるのです。「忍耐を生み出し…品性を生み出し…希望を生み出す」ということと同じ働きです。そのようにして、ついには「重い永遠の栄光」に至らせます。

見えないものに目を留める
 私たちは目に見える「外なる人」に囚われ,一喜一憂の毎日を過ごします。しかし「目に見えない」内なる人の世界に、心の目を留めるとき、外の囚われから解放され、永遠の喜びと勇気を持つことができるのです。

2014/9/7 ヨハネ福音書10:7~10 わたしは門です



・わたしの前に来た者
 羊飼いは、早朝、時間通りにやって来るのですが、その「前に来た者はみな、盗人で強盗」です。つまり、当時の祭司と律法学者たちのことを指しています。しかしまた、イエス・キリスト以外のすべての異教・異端もまた「前に来た者」といえます。彼らは外見は、如何に立派でも、また世の多くがそちらの方に靡くとしても、本質は「ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけ」です。

・わたしは門
 「わたしは門です」とあります。わたしとは主イエスのことですが、この言葉を通して、ご自身を天国に至る唯一絶対の門であると啓示しています。「わたし…です」はヨハネ福音書で多用される表現で、出エジプト3:14により「わたしはある」と名乗った主なる神を意味します。
 また「門」は天から地上に下ったへりくだった優しい門です。十字架の姿は私たちを愛し、私たちを切に招き入れようとする門です。そしてイエスを信じる者はすべて、そこに入ることができます。

・いのちを得るため
 「安らかに出入りし、牧草をみつけます」とあり、「羊がいのちを得、またそれを豊かに持つため 」とあります。それらは主イエスの元にある自由と平安、またいのちの賦与を示しています。「いのち」とは天の生命/永遠の生命です。それは地上の生命をも生かすすぐれた生命です。主イエスの元では地上でも、後の世でも、私たちは生命を豊かに持つことができるのです。

2014/8/31 ヨハネ福音書10:1~6 羊は声を聞き分ける



・盗人と強盗
 主イエスは、当時のユダヤ社会とは異なる新しい神の民のイメージについて描いています。それが羊飼いと羊の群れです。
 「盗人強盗」とありますが、それは第1に、当時のユダヤ社会の宗教家たちのことです。彼らは神によって派遣されたのでもなく、聖書に従っていない教師たちです。表面は威厳があるのですが、実態は、羊を奪う輩です。第2には、偽預言者、偽使徒、偽教師、異端の輩です。それは今も昔も、隙を狙って、羊の群れに忍び込もうとしています。

・羊の牧者
 「門からはいる者は、その羊の牧者」とあります。「門」とは、神が定めた正規の入口のことですが、それは神の証言、聖書の証言に合致していることです。主イエスは、まさにその方で、神の牧者です。
 また正規の牧者であるだけではなく、良い牧者です。つまりその民一人一人を知り尽くし、愛し、養い導くことができる方ということです。

・羊は声を聞き分ける
羊はその声を聞き分けます」とあります。羊は弱く、無知で、自己判断ができないのですが、ただ牧者の声を聞き分けるという能力だけは、与えられているのです。
 丁度そのように、神の民も、霊的なこと、目に見えない道について、自分では知ることができません。しかし、主イエスの声を聞き分けるという賜物だけ与えられています。それは、聖書の福音に安心と平安を持つこと、そして自発的に従う心です。
 このようにして、主イエスは、古いユダヤ社会とは異なる、愛と人格で結ばれた神の民を作りだしたのです。