2012/4/22 ローマ14:13~23 キリスト者の自由


・躓かせない配慮
 「兄弟にとって躓きとなるものを置かないように」とあります。教会に対して寛容であるだけではなく、さらに積極的に愛の配慮を持つようにと言うことです。
 バリヤフリーという言葉がありますが、教会では色々なところで信仰の養いの妨げとなる障害が取り除かれなければなりませんが、その決意が大切です。

・キリスト者の自由
 確かにキリスト者は信仰によって何を食べても何を飲んでも自由が与えられています。ルッターはキリスト者は何者にも束縛されない王であるとまで言っています。しかしながら、その自由を自己主張のために用いるのではなく、隣人の愛のために用いることの方が大切なのです。つまりキリスト者の自由は、神への愛、隣人への愛に向かう自由なのです。

・神の国は義と平和と喜び
 神の国は世の終わりに完成しますが、すでに今の世において、教会という形で現れています。教会は神の国であり、神の国のあり方で交わりを築くところです。
 神の国は「義と平和と聖霊による喜び」とあります。それはキリストがそうであったように、相手をおおうほどの義、自分から和解して作る平和、相手も含んだ喜びということです。神の国の民として、与えられた自由をふさわしく用いましょう。

2012/4/15 信仰告白第6条 救いについて

・救いについて
  信仰告白第6条は「救いについて」です。この背景には、次の二つのことがあります。つまり人間が罪人で神の怒りの下にあること、また罪と死の支配の中にあって悲惨な状態であるということです。

 ・キリストの血と復活が基盤
「キリストの血と復活が、救いの基盤」とあります。神の子キリストの血は無限の贖いの価値を持ちます。無限の高貴な方が、無限の苦しみの中で死んで流された血だからです。  さらにキリストの復活は、彼が死をのみ込む力を持ち、無限の生命の保有者であることを示します。

 ・信仰のみ
神が用意された救いの基盤に、私たちが預かることができるのは、神が定めた手段によります。それが信仰です。「御子を信じる者が…永遠の生命を持つ」とあるとおりです。  異教異端では、努力、めい想、悟り、難行苦行で救われることを説きますが、信仰のみが救われるための「狭い門」です。


 ・義認と新生/救い
  キリストの贖いを通して、私たちの罪はキリストに、キリストの義
は私たちに転嫁されます。それによって私たちは神の怒りから逃れます。  またキリストの死と復活により、聖霊が私たちに与えられますが、聖霊は私たちを新生させ、罪と死の支配から生命の御霊の支配の中に入れます。私たちの生涯は、この原理によって、栄光の姿に変えられていくのです。これが救いです。

2012/4/8 ヨハネ11:1~27 私は甦りです

・ラザロの死
  ラザロはキリスト信者で、私たちの代表として登場しています。彼は重病になり危篤状態でした。しかし主イエスはすぐには赴かず、愛しているがゆえに「なお二日とどまられた」のです。
  「主イエスは病気は癒せるが、死に対しては無力である」という不信仰を正して、より飛躍した信仰に導くために、あえて訪問を遅らせたのです。

 ・この病は死に至らず
  「この病気は死で」終わらずと語られます。主イエスを信じる者は、天の戸籍に名前が刻まれていて、彼は神に覚えられており、常に生きています。彼らにとって肉体の死は眠りに過ぎません。そして、その死の只中で神の生命と栄光がクリヤーに示されます。ラザロの場合も然り、私たち信仰者の場合も然りです。

 ・私は甦りです
  「わたしは、よみがえりです。いのちです・・・」とあります。「わたしは・・・です」とはエゴ エミーというギリシャ語のことばで、神としての存在者を示します。主イエスは神であり、絶対的な甦りの生命を持っています。生命の火は尽きることがなく、消えたと思われるときにも、より勢いよく燃え上がります。

 ・「あなた」は信じますか?
  「信じますか」とはマルタだけではなく、私たちに対しての問いです。キリストの甦りの生命はご自分だけのものではなく、信仰によって彼との接点を持つ者たちにも分け与えられる溢れる生命なのです。あなたはこのことを信じますか。

2012/4/1 マタイ27:33~50  なだめの十字架

・なだめの十字架
 主イエスは神の子であり罪のない方であるのに、ゴルゴダの丘で十字架に付けられました。十字架は身分が低い極悪人のための死刑執行の道具です。  主イエスの十字架は、私たちの罪の身代わり、また贖いのためでした。贖いはなだめによって実現します。なだめとは、神の怒りと処罰としての苦しみを一身に受けると言うことです。

 ・「捨てられる」苦しみ
  主イエスは十字架上で様々な苦しみを受けます。鞭打たれはりつけ磔にされるという肉体的な苦しみもさることながら、その苦しみの本質は「捨てられる」という苦しみでした。  まずユダに裏切られ、弟子たちに見捨てられました。ご自分の民であるユダヤ人には「十字架につけろ」との憎しみに満ちた叫びの中、捨てられました。  極めつけは、父の神によって捨てられたことです。「エリ エリ レマサバクタニ」とは「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」との意味です。これは詩篇22:1の預言の成就と言うことだけではなく、主イエスご自身の悲痛な叫びでした。

 ・怒りは去り、愛が注がれる
  主イエスの十字架のなだめによる贖いは、私たちの罪を完全に取り除き、神の怒りから解放します。私たちには色々な負い目や痛みがありますが、十字架を仰ぐときに、怒りは去り、神の愛が来て、私たちをおおうのです。